夜次元クジラは金魚鉢を飲む #17

)クジラリンク(マリンスノー


17.マリンスノーの夜


 月はまだ出ていなかった。空には気が遠くなるほど星が満ちているけれど、海に映し出された光は波にかき消されて姿をとどめない。

 あれは星なのか、マリンスノーなのか、夜なのか、海の底なのか。世界は一瞬も静止することなく絶えず移ろっている。

 穏やかに揺らいでいた海原の一部が波留の見ている前で丘のように盛り上がり、胸びれを真上にあげてブリーチングした夜次元クジラは巨体をしならせて空へと泳いだ。狼の遠吠えのような声は、喜んでいるのか悲しんでいるのか。あんなふうに叫べたらいいのに。

 夜次元クジラはしばらくして砂浜近くに降りて来ると、波留の頭上をぐるぐると旋回しはじめた。クジラを通して見える夜空はまるで海のようにさざめいて、うっかり手を伸ばしそうになったけれどシンが隣にいることを思い出してやめた。

 サンダルを脱ぎ捨てて波打ち際にぼんやり立ち尽くす波留の隣に、シンも同じように海を見つめて立っている。

 波留が歩道から家をのぞいているシンを見つけたのは、リビングで繰り広げられる親子ごっこと仲良しごっこに嫌気がさしたときだった。なぜ、と思うよりも先に「やった」と内心ガッツポーズをつくり、友達が来てるとまわりの大人たちに言いふらしてすぐ玄関に向かった。サンダルを履きながら身に着けているのがワンピースだと気づいたけれど、早く大人の目の届かないところに行きたくてそのまま家を出た。

「海はいい」

 夜次元クジラはさらに高度を下げて砂浜を這うようにシンの側を泳ぐ。彼の背後にある景色をゆがめ、そのゆがみの中にシンの姿が溶け込んで、青みがかった肌色に波留はゾッとする。

「シン」

 波留がシンの腕をつかむと、波留の手もクジラの体の中で青くひしゃげた。

「波留、どうかした?」シンは不思議そう首をかしげている。

「海はいい」

 夜次元クジラは空に昇ってどんどん遠く小さくなり、その光景が『夜次元クジラ』の一場面と重なった。頭上に瞬く満天の星がマリンスノーならば、ここは海の底。でも息は苦しくない。

「星は、それを星だと信じているから夜には星がある」

 波留は絵本の中にある夜次元クジラの言葉をつぶやいた。シンがその横顔じっと見つめている。

「シンは、帰らなくていいの?」

「帰るつもりだったんだけど」

「じゃあ、帰れば」

 シンの手を離した波留は裸足のまま海に足を浸すと、飛沫をあげて打ち寄せる波を踏みつけた。

「波留。夕方に撮影してたのって、ヨガスクールの?」

「見たんだ」足を止め、波留は不機嫌な声を出す。

「CONAの二階にいたから、たまたま見えたんだ。その服も撮影用?」

「これ? プレゼントだって。勘弁してくれってかんじ」

「誰から?」と聞きながら、シンの頭にはあのオッサンの姿が浮かんでいる。

「僕の父親になりたがってる人」

 腹立たしげな手つきでサンダルを拾い、波留は家と反対の方へ歩き出した。シンのスニーカーは砂にまみれて靴下の中までザラザラと鬱陶しいが、構わずその後を追った。

「波留は、そういう服好きじゃないの?」

 波留が急に立ち止まり、シンは質問を間違えたのだと後悔した。彼女はシンの目の前でワンピースのボタンをみっつほど外し、裾からガバッとまくり上げる。

「ちょっと、波留?」

 シンが顔をそむけると、波留は脱いだワンピースをシンの目の前に突きつけた。

「シンも着てみる? 僕にはこんな服合わない。こんなの僕じゃない」

 そろりと波留に顔を向けると、長袖のティーシャツにハーフパンツ姿だ。ホッと安堵するシンの肩に、波留は「着てよ」とワンピースを放り投げる。

「父親なんていらない」

 波留はうつむき、自分に言い聞かせるように低い声で言った。

「父親って必要? どうせ僕は女だし、男の親に相談したいことなんてない」

 責めるようにシンに向けられた波留の顔が、何かに気づいてわずかにゆがんだ。波留の名を呼ぶ男の声がして、シンが振り返ろうとするとグイッと腕を引かれ引き戻される。すぐそばに波留の顔があり、「無視して」と彼女はシンの耳元で囁いた。

 波留の両手がシャツの襟元を掴み、傍から見れば抱きついているように見えるかもしれないけれど、シンは締めあげられている気分だった。宙ぶらりんの手を持て余したまま、直立不動で前を向いている。

 波留ちゃん、と男の声がした。

 波留とシンのあいだには数センチの隙間がある。触れていないはずなのに、お互いの緊張が空気を伝って感染し、息苦しくなったシンは思わず「溺れそう」と口にした。シンの息が波留のうなじを掠め、波留はぞくりと肩を震わせる。

「喋らないで、シン。くすぐったい」

 ゴメンと言いかけ、シンは口を噤んだ。しばらくして「帰ったみたい」と波留はシンから離れ、彼の肩にかかったワンピースを掴んで自分の肩にかけた。シンの心臓は破裂しそうなくらい早鐘を打っている。

「波留は……」

 取り繕うように口にしたけれど、次の言葉が出てこなかった。

「何?」

 波留はいつもと変わらず素っ気ない。シンは気の利いたことを言えない自分に焦りをおぼえながら、ふと森谷とのやりとりを思い出した。

「波留は、なんで自分のこと僕って言うの?」

 何を今さらというように波留は呆れ顔でシンを見る。

「シンだって、自分のことアタシとか言わないよね」

「そうだけど」

「聞きたいならハッキリ言えばいいのに。男なのかって。体は女、心はどっちでもないよ。強いて言えば心はクジラ。僕はクジラから生まれたんだ」

「クジラ?」

「クジラは何から生まれたと思う? 生まれたんじゃなくて最初からあるんだ。クジラも、金魚も、僕も。クジラを生み出したのは僕で、僕を生んだのはクジラ」

 波留はシンの存在など忘れてしまったように、空に向かって語りかけた。そこに何がいるのか、球体を包み込むように両手を広げ、陶酔した目で宙を見つめている。シンは得体の知れない不安をおぼえ、咄嗟に波留の手を掴んで下ろした。

「その格好じゃ冷えるよ。そろそろ帰ろう」

 来たときとは反対に、シンが波留の手を引いて歩いた。波留は「帰りたくない」と口では言ったけれど、諦めはついているらしく素直にシンの後ろをついて行く。

 海岸道路沿いに外灯がポツポツと灯っていて、CONAの明かりが道を照らしていた。道端にあったワンボックスカーはなくなり、波留の家のカーテンは閉まって、庭に設置された丸いソーラーライトがヘンゼルとグレーテルの光る石のように玄関まで続いている。シンと波留は門の前で立ち止まった。

「あの人たち帰ったのかな」

「一人を除いて」と波留は投げやりに答えた。そして、まぶししそうにCONAの二階を見上げ、つられてカフェの窓を見上げたシンは海斗が手を振っているのを見つけると慌てて波留の手を離した。

「バイバイ、シン」

 波留は光る石のあいだを駆けて行き、振り返ることなく家の中に姿を消した。シンは波留に向かって振るつもりだった中途半端な位置にある手を、仕方なく海斗に向けて振った。


次回/18.ゆがめるもの

#小説 #長編小説 #ファンタジー #夜次元クジラ #創作大賞2022

よろしければサポートお願いいたします。書き続ける力になります!🐧