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夜次元クジラは金魚鉢を飲む #1

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1. 金魚のいる教室


「そうですか。お父様はあの事故で」

 森谷モリヤと名乗った教師は気づかわしげに眉をひそめた。校舎に響く来客用スリッパの音は波留と那波のもので、森谷の足元からはゴムが擦れるキュッと詰まった音がする。白地に薄ピンクの線が入ったスニーカーに、絵の具を拭ったような青い筋。

 階段を三階まであがると正面は窓ガラス、左に折れて廊下が続いている。一番手前にある三年一組のドアには立ち入り禁止の紙が貼られ、波留が扉のガラス窓から教室の中をうかがうと窓はすべて開けられていた。松林の奥にかすかに海が見える。森谷はチラッと教室に目をやったが、足を止めず廊下を先に進んだ。

 波留の転校先であるこの中学校で、新学期から担任になるのが森谷だった。コーラルピンクのカーディガンが似合うぽんやりした雰囲気の若い女性だが、花粉症なのか鼻づまりの声が子どもっぽい。どうやら彼女は自分の失言に気づいていないけれど、中二の時の担任に比べればマシだろうと波留は後ろをついて歩きながら思う。

「実は」と那波が遠慮がちに口を開いたのが、波留には少し意外だった。

「私が言ったパートナーというのは女性なんです。波留のもう一人の母親」

 森谷の歩みが一瞬止まって、彼女は「すいません」と頭を下げた。

「あの、ここら辺は都会と違ってまだ同性婚の家庭が少なくて。気に障ったらすいません。またおかしなことを言ったら教えてください」

 波留さんも、と森谷はもう一度頭を下げる。

 同性婚のことは母ひとり子ひとりだから隠そうと思えばいくらでも隠せるのだが、この学校でもじきに広まるのだろう。「言わなくてもいいんじゃない?」と心配するのは決まって那波の方なのに、自分から口にしたということはおそらく森谷に好印象を抱いたのだ。波留は隠す必要はないと昔から主張している。親の同性婚を理由にまた嫌がらせをされるならこれまで通り不登校を通すだけだし、居場所だった留里のアトリエが引っ越しでなくなってしまったのは寂しいけれど、その代わり家のそばには海がある。いつでもクジラを泳がすことができる。

 廊下の窓の向こうに別棟の校舎が見え、その建物沿いには何本か背の高い木が植えられていた。一階の右端は職員室らしく窓に大人の姿がある。反対の左端はこっちの校舎と渡り廊下で繋がれ、校舎と渡り廊下でコの字型に囲われた中庭は芝生が青々と茂り、その隅に足洗い場があった。春休みだからか生徒の姿はない。波留が学校に通いはじめるのは来週からだ。

「ここです」

 森谷の声で足を止め、波留は入り口にあるプレートを確認した。そこには三年三組とあり、廊下の先は視聴覚室があって突きあたりになっている。

 森谷について教室に入ると、机と椅子は廊下側の壁に寄せられ、上下ひっくり返して重ねられていた。前側のドアも机で塞がれ、ぽっかり空いた窓側半分のスペースに机ひとつと椅子がみっつ置かれている。

「座ってください」

 森谷は二つ並んだ椅子を指し、脇に抱えていたタブレットを机に置いた。

「去年の三年生は三組まであったんです。今年は二組しかなくて、ここは倉庫に。波留さんは一組なので教室が使えたらそっちが良かったんですけど、ちょうど業者がワックスをかけ終えたばかりで乾くまで入れなくて」

 正面の黒板には何も書かれておらず、教壇の上にダンボールが並んでいた。どこからかウーンと低い機械音が聞こえ、教室を見回して音源を探すと後ろの棚の上に金魚鉢がある。上部がヒラヒラとフリルになったいかにも金魚鉢らしい球体のガラス鉢には、赤い金魚と黒い出目金の二匹が泳いでいた。差し込まれたチューブが水草の陰から細かな泡を吐き出している。

 那波に促され、波留はふたつ並んだ椅子のうち窓側に座った。机をはさんで向かいの椅子に腰を下ろした森谷の視線は、波留親子を素通りして金魚鉢を見ている。

「あの金魚は卒業した三年三組の子たちが残していったんです。去年私が担任をしていて、もし今年も三年三組があったら別の場所に移動したんですけど、空き教室になってしまったからとりあえず金魚たちもそのまま。春休みのあいだは私が世話してるんです」

「新学期が始まったら先生のクラスで飼うんですか?」

 那波が聞いたのは、興味というより会話をつなぐためのようだった。

「どこでも一緒だよ。金魚たちは一生あの中から出られない」

 波留が棘のある口調で言うと、那波の手が伸びて「コラ」と太ももを叩く。ポケットのたくさんついたラクダ色のカーペンターパンツがポスッと空気の抜けるような音をたて、波留はパーカーのポケットに手を突っこんで背もたれに体を預けた。そして、「留里ママなら」と考える。

 留里ならきっと「あの金魚出してあげようか」と、悪戯っぽい笑みを浮かべ、波留にWIZMEEウィズミ―を渡す。そして自分も一緒にWIZMEEを頭にかぶり、指先でヴァーチャル金魚を描いて金魚鉢の外を泳がせる。波留はデータを共有し、一緒に目の前の空間に落書きをする。

 WIZMEEにはキャラクタートーク機能が搭載されていて、ゲームやアニメのキャラクターのほか、自作したキャラクターのデータを読み込んで会話ですることができた。波留のWIZMEEには夜次元クジラがペットとして登録され、幼い頃からずっと波留の話し相手だった。だからといって、WIZMEEの夜次元クジラが学校から波留を連れ出してくれたりはしないし、ヴァーチャル金魚をガラス鉢から出してやったところで現実世界の金魚が救われないことくらい波留もわかっている。

 波留が金魚鉢の二匹に憐れみの眼差しを向けると、黒い出目金がスルリとガラスをすり抜けて外に出た、ように見えた。もしかして、と目を擦ってもう一度見ると、出目金はちゃんと金魚鉢の中にいる。

「可哀そうな金魚」波留がつぶやくと、「そうね」と森谷の声がした。

「出してあげたくても池や川で生きていけるか分からないし、生態系を壊すかもしれないから放すわけにいかないの。波留さんが言う通り、金魚は一生金魚鉢の中ね」

 立ち上がった森谷が近くの窓を半分ほど開け、鼻先をかすめた潮の匂いにつられて波留が外に目を向けると、学校を囲うように植えられた常緑樹、その隙間から青い海が見えている。那波の運転で学校に来たときも海岸沿いの道だった。

 海があってもなくても学校に通うことが波留にとって苦痛だということに変わりなく、けれど、これだけ自分の言った通りの環境を整えられて一日も登校せず引きこもるわけにはいかなかった。

 一週間くらいかな、と波留がぼんやり考えていると、振り返った森谷と思いがけず目が合った。

「人間がいないと死んでしまうのよね、金魚は。金魚も海を泳げたらいいのに」

 ねえ、と森谷は同意を求めるように微笑み、彼女の肩まである緩いクセ毛が吹き込んだ風に揺れる。波留の短い髪は、前髪がわずかに持ち上がっただけだった。


次回/2. WIZMEEウィズミ―

#小説 #長編小説 #ファンタジー #夜次元クジラ


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