夜次元クジラは金魚鉢を飲む #5

画像1


5.クジラとの対話


 夜次元クジラの鳴き声が、波留の鼓膜を震わせた。

 シンは海の中に立ち、ターコイズブルーの澄んだ海は遥か遠くまで続いているのに、教室の後ろの黒板の文字が見える。

「俺の好きなものは海とサーフィン。イタリさんの好きなものは?」

 波留は呆然としたまま「僕?」と問い返した。ザブン、ザザンと耳に届く波の音が生徒たちのどよめきだと気づき、我に返ったとたん海は消え、シンは教室に立っていて、水のない中空をクジラが泳いでいた。教室中の視線が波留に集まっている。

「クジラ」

 波留はそれだけ言うとシンを含めたクラスメイト全員に背を向け、「今の海はなに?」と心の中で夜次元クジラに問う。時に頭の中を覗かれているのではと思うくらいタイミング良くクジラが言葉を発することがあるけれど、答えてほしい時に答えてくれないのが夜次元クジラだ。今もこれ見よがしに黒板の前を泳ぎながら、波留とは目を合わせずユラユラと胸ビレを揺らしている。

 WIZMEEウィズミーをつけることなく夜次元クジラといられるようになってから、波留は一緒にいろんなものを見たし、いろんな場所に行った。けれど、さっきのように三次元の世界に海が重なって見えたのは初めてだったし、当然その不思議な海を泳ぐ夜次元クジラの姿を目にしたのも初めてだった。

 もしかして、この街に来てクジラを海で遊ばせたからだろうか。

 夜次元クジラは水を必要としているわけではないけれど、水を見ると入りたくなるらしい。引っ越してくるまで夜次元クジラを泳がせる水場といえば風呂やペットボトルの中、近所にある幅四メートルほどの川がせいぜいだった。波留が海の近くの学校なら行ってもいいと那波に言ったのは、夜次元クジラが海で泳いでいる姿を見たかったのもある。

 だとしても、四次元の海なんてあるのだろうか?

「見たものは見たもの。見えないものは見えないもの」

 夜次元クジラはそう言い残し、教室のドアをすり抜けて廊下へ出て行った。波留が話しかければ対話するけれど、波留が喋らないでいると思い出したように意味深なひとり言をつぶやくだけで、他の人のいる場所では必然そうならざるを得ない。ある意味それはWIZMEEの夜次元クジラと同じだ。けれど、WIZMEEの夜次元クジラと裸眼で見る夜次元クジラとでは話す内容がまったく違う。

 WIZMEEのキャラクタートーク機能では利用者が嫌がることは言わないようになっており、登録してしばらくはトンチンカンなことを喋ることがあっても、じきに学習してユーザー好みになる。WIZMEEの夜次元クジラは飼いならされた犬のようだ。

 一方、一年前から波留の前に現れるようになった夜次元クジラは、登録ペットでもなければ波留の所有物でもない。夜次元クジラは誰よりも自由で、時間にも空間にも縛られず、波留との関係は対等ではなくクジラの方が目上であるような話し方をする。夜次元クジラの言っている意味が分からないのはしょっちゅうだったけれど、聞き返してまともな返事が返って来るのは十回に一回くらいだった。

 波留は今もクジラの言葉の意味を考えている。――見たものは見たもの、とは?

「二年の終わりに進路希望調査があったと思うけど、前期の終わりまでにはある程度志望校決めるようにして下さい」

 自己紹介は終わり、生徒たちはタブレットを確認しながら森谷の説明を聞いていた。波留の志望校の欄にはしっかりT高と記載されている。

「志望校を変更する場合は、今開いてもらってる進路調査シートの志望校の欄を書き換えて下さい。変更するたびに先生に通知が来るようになってるから、迷ってるうちはコロコロ変更しないで直接相談して」

 高校どこにした? まだ分からないよね、と波留の耳には生徒たちのヒソヒソ話が届く。彼らにとって一年後がまだまだ先の遠い未来なのは、きっと今が楽しいからだ。波留にとって高校進学は早く手に入れたい切実な明日であり、面倒な人間関係から解放され、ストレスのない日々が始まることを意味する。

「明日はここにある。昨日にもある」

 いつの間に教室に戻って来たのか、夜次元クジラが森谷の頭上を掠めた。

「憐れな金魚は明日のことなど考えない」

 クジラの発した言葉で波留は三組の金魚鉢のことを思い出した。あの四次元出目金は森谷の対話者に違いない。波留が夜次元クジラに話しかけるように、森谷は出目金がいるときもいないときも出目金を相手に話し、そうして出目金は三次元の肉体を離れ、森谷のそばへ行く。

 ヨジゲンに行きたいか?

 それが、夜次元クジラが波留に言った最初の言葉だった。中学二年の、居心地がすこぶる悪い教室で、波留は喋るクジラを前に声を出すことができず首をかしげた。すると、夜次元クジラは「三次元は窮屈だ」とつぶやいた。だから、夜次元クジラの言ったのが「夜次元」ではなく「四次元」なのだろうと波留は思っている。

「起立」

 森谷の声で生徒が一斉に立ち上がり、ガタガタと椅子を引く音が教室を満たした。夜次元クジラの向こうに見える青みがかったアナログ時計は十一時半を指している。

「明日の一時間目から授業が始まるから、みんな春休み気分は今日までだよ。じゃあ、終わります」

 礼、と森谷が言うと生徒たちが「ありがとうございました」と声を揃え、波留は黙ったまま頭をペコッと下げてリュックを背負う。誰にもつかまらないよう教室を出るのには、扉に近い席は最適だった。

 教室の後ろのドアから廊下に飛び出した生徒が、大きな足音をさせて階段を降りていった。階段を一階まで降りれば生徒玄関。波留は階段とは反対方向にある金魚部屋へと向かった。


次回/6.金魚係

#小説 #長編小説 #ファンタジー #夜次元クジラ #創作大賞2022


よろしければサポートお願いいたします。書き続ける力になります!🐧