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村上春樹さんの小説の良さって何?ときかれて〜私の好きなもの好きなひと

自分が好きなものについて書くこと
自分が好きなものを言語化すること

それが自分のアイデンティに繋がる道である、という教えを受けて、ちょっくら言語化してみたいと思います。

まずは現在6年ぶりの新刊を舐めるように読んでいる村上春樹さんについて。

私にとって、できるだけゆっくりゆっくり粘着質に読みたいのが村上春樹さんの文章。

あ、どうか私のことをハルキストと呼ばないでくださいませ。なぜなら、村上春樹さんが読者とのメールのやりとりの中で

“ハルキストじゃなくて、できたら「村上主義者」と呼んでください。よりハードコアな感じがします。“

とおっしゃっていたから。

“いったい誰がいつから、そんな「ハルキスト」なんてちゃらい呼び方を始めたんでしょうね。僕にはひとことの相談もなかったな"

ということで恐れ多くも自称「村上主義者」です・・・が、主義者というのもちょっと危険思想みたいに聞こえちゃうから抵抗あるんだけど。

もちろん CD-ROMもゲットしました

なにはともあれ、一人の作家のすべての作品を読む、という読み方をしているのは、村上春樹さんだけ。小説だけでなく、旅行記やエッセイ、インタビューや対談、メールやサイトなど、それぞれに魅力的で個性的で、一人の作家とは思えないくらい違った良さがあります。

とは言え、やっぱり一番好きなのは長編小説。語弊があるかも知れませんが、村上春樹さんの小説は長ければ長いほど良いと思ってしまいます。1冊で終わる小説はもう短すぎる!と思ってしまう。(ああ、だけど短編小説の切れ味も素晴らしい・・・)

それもただただ村上春樹さんの文章のリズムの中でたゆたっていたい・・・という中毒患者のようなものです。

読み返し過ぎてボロボロです

例えば「ねじまき鳥クロニクル」は3冊の長編小説ですが、あの冒頭のパスタのくだりなど、一気に持っていかれませんか?

“台所でスパゲティーをゆでているときに、電話がかかってきた。
僕はFM放送にあわせてロッシーニの「泥棒かささぎ」の序曲を口笛で吹いていた。スパゲッティーをゆでるにはまずうってつけの音楽だった。
電話のベルが聞こえたとき、無視しようかとも思った。スパゲティーはゆであがる寸前だったし、クラウディオ・アバドは今まさにロンドン交響楽団をその音楽的ピークに持ち上げようとしていたのだ。“

この出だしがめちゃくちゃ好きで、情景が一瞬で目に浮かぶし、しかもなんと音楽的なリズムのある文章なのでしょう!

ずっとこの中毒になるリズムは何なのだろう?と思っていたら
翻訳談義を記録した「翻訳夜話」で村上春樹さん自身がこんな風に語られていました。

翻訳作品までは読みきれていませんが…

“僕は若い頃ずっとジャズの仕事をしていたんで、ロックも好きだけど、要するにビートが身体にしみついているんですよね。だからビートのない文章って、うまく読めないんです。それともう一つはうねりですね。ビートよりもっと大きいサイクルの、こういう(と手を大きくひらひらさせる)うねり。このビートとうねりのない文章って、人はなかなか読まないんですよ。“

“それでビートというのは、意識すれば身につけられるんです。ただ、うねりに関して言えば、これはすごく難しいです。ビートとうねりを一緒につけられるようになれば、もうプロの文章家になれます。“

なるほど!音楽への造詣が深い村上春樹さんだからこそ、こんな風に文章を作曲されているんだ!と思いました。だからストーリーが分かっていても、村上春樹さんの小説って何度も何度も読み返したくなるんですよね。大好きな楽曲を何度もリピート再生するように。

そしてこの談義の最後、こんなふうにも話されています。

“良い文章というのは、人を感心させる文章ではなくて、人の襟首をつかんで物理的に中に引きずり込めるような文章だと僕は思っています。“

村上春樹さんの小説を読むと、まさにそんな風に引きずり込まれます。
時には井戸の底に、あるいは壁の中に、深い森の中に、暗い地下通路に。
それは村上春樹さんの小説の中で繰り返し繰り返し表現される、メタファーとしての世界。
悪意に満ちた暴力的な世界もあれば、喜びも悲しみもない静謐な世界もあるけれど、それが何か?と問われると・・・何冊読んでも分かりません。そう、一体それが何を表現しているのか、結局いつも分からないのです。

村上春樹さんの作品の魅力を教えて、とか、ストーリーを教えて、と言われて答えに困るのはそこです。村上春樹さんは「職業としての小説家」というエッセイでこんな風に語っています。

関係ないけど声がイケメててビックリします

“自分の頭の中にある程度、鮮明な輪郭を有するメッセージを持っている人なら、それをいちいち物語に置き換える必要なんてありません。その輪郭をそのままストレートに言語化したほうが話は遥かに早いし、また一般の人にも理解しやすいはずです。小説という形に転換するには半年くらいかかるかもしれないメッセージや概念も、そのままのかたちで直接表現すれば、たった3日で言語化できてしまうかもしれません。あるいはマイクに向かって思いつくままにしゃべれば、十分足らずで済んじゃうかもしれません。頭の回転が速い人はそういうことができます。聞いている人も「なるほどそういうことか」と膝を打つことができる。要するに、それが頭がいいということなのですから。“

(はあ♡ここでも文章のビートが!・・・じゃない)確かに、いわゆる物語としての小説を必要とする人と必要としない人がいるのはこういう事かも知れません。だから頭の回転がスローな私には、長い長い長い物語が必要なのです。

“小説を書くというのは、とにかく実に効率の悪い作業なのです。それは「たとえば」を繰り返す作業です。ひとつの個人的テーマがここにあります。小説はそれを文脈に置き換えます。「それはね、こういうことなんですよ」という話をします。ところがその置き換え(パラフレーズ)の中に不明瞭なところ、ファジーな部分があれば、またそれについて「それはこういうことなんですよ」という話が始まります。その「それはたとえばこういうことなんですよ」というのがどこまでも延々と続いていくわけです。限りないパラフレーズの連鎖です。“

パラフレーズとは音楽用語でもあります。ある楽曲を原曲にして、他の楽器で演奏できるようアレンジしたり、編曲したりするクラシックの技法のひとつ。聖書や詩篇のテキストをパラフレーズすることもあります。私は村上春樹さんの無限のパラフレーズを聴いていたいなあ、と思う村上主義者なのです。

そしてその壮大なパラフレーズを聴き終えるとき、つまり村上春樹さんの長い小説を読み終えて、その物語の世界を通り抜けたときに得られるカタルシス。そこに最も惹きつけられているのだと思います。

さあ、今日も舐めるように読み返そう!!

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