【連載小説】蜘蛛の手を掴む<第十話>
『ザ・フライ』の呪い
明らかに海水、しょっぱい水だ。音丸はふ頭管理事務所から、そばの海へと瞬間移動していた。
音丸が放った瞬間移動の呪現言語は、一度身体を分解し、所定の場所まで跳ね飛ばす。その後、元の記憶に従って再構成。音丸でさえ試したことのない初めての呪現言語だった。
父親が映画好きだった分、昔の映画はよく観ている。『ザ・フライ』、科学者のセスが物質転送装置を発明する。転送装置の中に紛れ込んだ一匹のハエ。転送前に身体情報が分解され、転送先で再構成される。ハエとともに肉体が転送され、再構成されたセスはハエの驚異的な力を手に入れるが、次第に心身ともにハエ化していくというホラーである。
転送系・瞬間移動系の呪現言語はご法度とされている。実谷にも、千堂寺にも厳しく禁呪と釘を刺されてきたが、ここで使わなきゃいつ使う、と音丸の覚悟と決意が禁呪の契りを反故にした。
若輩者の自分が護るなんて随分強く出たもんだと、菜緒に叱られそうだ。菜緒は?と音丸は周囲を見渡した。そこには、菜緒の姿はなかった。音丸は息を吸い込み、肺を大きく膨らませた。潜水最高記録は五分二十八秒だ。水面から深く潜り込み、菜緒を探した。
しかし菜緒はいない。音丸は『ザ・フライ』を思い出していた。もしかして、菜緒は自分と転送時に一体化したのでは?と。自分の中に問いかける。「菜緒さん、僕のなかにいる菜緒さん!」と。だが反応はない。
音丸は海面から浮き上がり、テトラポットをのぼり周りを見渡した。菜緒らしき姿はない。
菜緒は瞬間移動時に、音丸に二人の手を託していた。三角ラトイと泉岳イミズの左手。蜘蛛の巣のタトゥー入りだ。音丸は自分の手を見た。右手が左手になっていた。ゴツゴツとした手に。左手は繊細でか細い手に。そしてどちらの手にも蜘蛛の巣のタトゥーが入っていた。転送後の再構成時に、二人の手の情報が上書きされたのだ。音丸の右手はサイコパスの泉岳イミズの左手に、左手は同じ呪現言語師の三角ラトイの左手に。両手が左手、しかも蜘蛛の巣のタトゥー入り。やっぱり、転送系は禁呪だと、菜緒を地上から探しながら音丸は慣れない両手で頬を叩き、気合を入れた。
*
「音丸と菜緒の発信機、電波が微弱です」
留守番の饗庭今日子は、武威裁定Q課でメディカルチェックを受けながらも、情報管理業務を任されていた。
「ったくぅ、人使い荒いですよね」
「仕方ないだろ、鷲子は使い物にならないんだから」
「千堂寺さん、元気じゃないですか?」
「お年寄りは大切にって、習わなかった?」
「で、どっち?」
千堂寺は消えた発信機の特定を急がせた。菜緒か音丸か、どちらが消えたかでその後の戦い方も大きく変わる。
「菜緒さんですね」
明日彌の甲高い声が、二日酔いの千堂寺には堪えた。
「菜緒がやられた?」
「たぶん、音丸さん、アレだ。瞬間移動しましたね」
「アイツ…」
千堂寺は元教育係の実谷に電話をかけた。呼び出し音一回で、実谷は深刻そうな声で「わかっています」と要件を訊く前に、状況を察した。
「明日彌、ここでステイ。俺の発信機も登録してモニタリングしろ。実谷が後でこっちに来る。指示はヤツに仰げ」
「千堂寺さんは?」
「菜緒を助けに行く」
千堂寺は、クタクタのジャケットを羽織る。真新しいネクタイは外して、デスク上に置いた。ジャケットはクタクタなのに、ネクタイは新品。靴はピカピカの本革、なのに時計はダサい。明日彌は千堂寺のファッションセンスというか、人となりにある種の気持ち悪さを抱いていた。この人は、どこか分裂していて、どこか一人の人じゃないみたいな。多重人格なんて生易しい感じじゃなくて、いくつもの人間で構成されているような。自分だってサイコパスの手前、人としての形があるうちに武威裁定Q課にスカウトされていたからよかったものの、本当なら殺人鬼になっていてもおかしくない。境界線はいつもあいまいだ。だが、千堂寺はグレーゾーンみたいな柔らかいグラデーションはない。白黒はっきりしている。だがその中には白がいくつかあり、黒もいくつかある。
ファッションモデルの誰かが言ってたみたいに「白は百色?二百色?」どっちでもいいけど、千堂寺の正義の白色は一色だけじゃない。何色もある。そして、恐ろしいのは悪を象徴する黒色だ。この黒も何色もある。白よりも少ないとは思うが、それでも白と黒を同居させて、表面上は白のみで生きている千堂寺の深淵は恐ろしいと、明日彌は思っていた。
「ボーッとしてんじゃねぇぞ、明日彌。発信機いいな」
「はい」
「インカメ、嫌いだがつけておく」
「菜緒先輩のところまで、どうやって行くんですか?場所、発信機消えたところだから、あの管理事務所だとは思いますが。ここから一時間以上はかかりますよ」
「だから、これだよ」
千堂寺はテーブルに止まっていた「ハエ」を指さした。『ザ・フライ』と千堂寺は呟く。聞こえるか聞こえないかのボリュームで。
『トゥ・菜緒』と付け足した。
千堂寺の身体がゆっくりと消えていく。呪現言語師の実力は明日彌には知らされていないが、きっと上位者なのだろう、明日彌は千堂寺のことは詮索せずにいた。さほど一緒に仕事はしたことのない、父親よりも年上の男。千堂寺は音丸とのコンビが多い。一方、私は一匹狼。大儀見鷲子と同じように、単独潜入を得意とする。だから、本当に千堂寺のことは良く知らない。だが、わかる、この呪現実言語は、禁呪だ。
瞬間移動、千堂寺の肉体は分解されていく、菜緒のもとで再構成されるのか。明日彌は気づいた。千堂寺の中にある無数の白と黒の正体に。取り込んできたのだ、仲間も敵も。瞬間移動という禁呪で。それが瞬間移動を目的としたのか、それとも同一化・取り込みを目的としたのか。そこまでは、明日彌にはわからない。だが、そのヒリつくような正義と爛れている悪の存在は、少なくとも自分の手に負えるものではないと、明日彌は息をのんだ。
走って来た実谷と入れ替わりに、千堂寺はその場から消えた。
「やっぱり、千堂寺さん行っちゃいましたか」
「はい、瞬間移動ってやつですよね」
「まぁ、でも私たちはアレを『ザ・フライ』と呼んでますけどね」
武威裁定Q課の大型モニターには、各部員の位置情報が表示されている。潜入捜査担当であっても例外ではない。見慣れないアイコンが表示された。千堂寺だ。アイコンは「千」と表示されている。見慣れない場所だ。都内ではない。大阪?しかも大阪の郊外・枚方だ。菜緒のアイコン「菜」も同じ位置に点灯した。
「千堂寺さん、無事、菜緒さんのところに移動できたようですね」
優しそうな声だが、実谷の眼はモニターを強く睨みつけていた。モニターがこわれてしまうのではないかというほどだった。
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