それでも生きる(8:母の介護をする障害者)
退院をして家に戻ってきた。
安心感を得られるかと思ったら、そんな状況ではなかった。
母の糖尿病の症状が悪化しており、歩くのが難しくなっていたのだ。
母は、オムツを着用して生活をするようになっており、また、そのオムツの交換を母自身で行う事が難しく、自分がオムツの交換を行う事となった。
利き手であった右手ほど、左手はまだ器用に動かせる段階ではなく、しかも片手でオムツを交換しなければならない。
なかなかスムーズに作業が進まない。
この時、右手はまだ包帯を巻いている状態だったのだが、その包帯に、母の汚物が付いてしまう事が何度もあった。
その度に、その包帯は洗ったり捨てたりするため、別の包帯で改めて巻き直さなければならなかった。
オムツや包帯は、自宅から最寄りのドラッグストアで購入していた。
ある時、そのドラッグストアで、自分と同年代の男女四人が、髪の毛を染めるためのヘアカラーを購入しようとしていて、「この色が似合うんじゃない?」「え〜、明るすぎるよ」といったやり取りをして、和気あいあいと盛り上がっているのを横目で見ながら、自分はオムツや包帯を買うという状況だった事があり、その時は、孤独感に襲われた。
母は「もう死にたい」と口にするようになった。
離婚をした当時、母は学校の先生をしていたので、その収入で子供達を育てていこうと思っていたはずだ。
しかし、離婚のショックで精神的に病んでしまい、働く事がままならなくなった。
そして、家計を支えるために高校を卒業して就職をした息子が、その勤務先の事故で右手を失った。
母は、「自分がしっかりしていれば、子供を大学に行かせてあげられて、そうすれば、別の会社に就職していたはずだから、右手を失うような事故に合わないで済んだ。自分のせいで、子供は右手を失った」といった考え方をしていた。
「もうこれ以上、子供に迷惑を掛けたくない。だから、もう死にたい」
と言うのである。
自分は、「この状況は一体、何なんだ?」と思った。
自分は生きるという選択をした。
痛みも苦しみも受け入れることにした。
生きたいと思ったから、生きているのだ。
そして、そう思えたのは、右手を失ったからだ。
右手を失っていなければ、生きるという事に対して、何の意識もしていないし、生きている事が当たり前だと思っていたはずだ。
失ったものがあるからこそ、「当たり前にあると思っていたものが、実は当たり前ではない」と実感できたのだ。
失ったものに目を向けていても、返ってこないものは、返ってこない。
それなら、代わりに得たものを大事にしていく人生を過ごしたい。
そんな「生きる」という方向に目を向けている自分の前で、母という身近で大事な人が「死ぬ」という方向に目を向けている。
どれだけ強くならなければいけないのか、と思った。
泣き言も言えないのだと思った。
ネガティブな事を言えば、「死」という方向に引っ張られてしまう気がした。
だから、右腕に事故当時の痛みが残っているという事も言えなかった。
そんな事を言っても、余計に母を苦しめるだけだから。
「俺は、事故に合ってよかったと思ってる。もし、あの事故の直前に時間が巻き戻せたとしても、俺は事故に合う人生を選ぶ。だから、自分を責めるなよ」
と、母に言った。
そして、
「何も迷惑は掛かってない。もし俺がゴミ捨てをする時に、ゴミ袋を結ぶ事ができなくて、結ぶのを頼んだら、迷惑かよ? 迷惑じゃないよな? それと一緒だよ」
とも言った。
強がりなのか本心なのか、自分でも分からなかった。
ただ、この頃から、自分の中で「人を頼らない。自分一人で何とかする」という意識が急激に強くなっていったような気がする。
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