映画『怪物』覚え書き-音楽室での対話について
是枝裕和監督・坂元裕二脚本の新作映画『怪物』を7月に映画館で鑑賞した。
今回は、語りどころが多いこの作品の全体を考察する体力はないが、主人公の小学5年生・湊と校長のシーンについて私が考えたことを記しておこうと思う。
(※以下、作品の核心に触れる重大なネタバレがあるのでご注意ください)
音楽室にて、湊は校長先生に対してある告白をする。校長がそれに対してアンサーをする、そして二人は言葉に出来ない思いを乗せて楽器を吹く、というシーンである。
湊「……僕はさ」
伏見「うん」
湊「あんまりわからないんだけどね」
伏見「うん」
湊「好きな子がいるの」
伏見「そう」
湊「人に言えないから嘘ついてる。お母さんにも嘘ついてる」
伏見「そうなの?」
湊「僕が幸せになれないってバレるから」
伏見「……」
(中略。二人でトロンボーンとホルンを吹く:筆者)
伏見「そんなの、しょうもない。誰かにしか手に入らないものは幸せって言わない。しょうもないしょうもない。誰にでも手に入るものを幸せって言うの」
(『怪物』オリジナルシナリオブック142~143頁より )
『怪物』という作品が鑑賞者に投げかける核の部分が、この会話に表われている。この作品の台詞は、全編を通してわかりやすく、難解な言葉を使っていないが、このシーンの伏見校長の台詞だけは哲学的だ。私は初めて観たとき、意味を理解するために頭の中で台詞を繰り返して反芻した。
湊は、依里との関わりを通して、彼に好意を持ったことを自覚した。そして、そのことに戸惑っている。同性を好きになることは、つまり、母が言う「どこにでもある普通の家族」を手に入れられないということであり、依里の父に言わせれば「豚の脳」を持っているということだという風に、理解しているからだ。だから湊は、自分のことを「幸せになれない」と表現する。
湊の悩みは、有り体に言えば「同性愛者は幸せになれないのか?」と問うている。(この作品は人を繊細に描いており、湊自身まだ自我が確定していない年齢故に、「同性愛者」という言葉を使っていないのだが、ここでは分かりやすい表現を採らせていただく)
この会話が特に面白いのは、この湊の問いに対して、伏見校長が少しズレた答えを返しているところだ。二人のやりとりが自然で、リアルな演技になっているため、結構すんなりと聞けてしまう。しかし、じっくり見返すと、校長の返事は、湊の問いに答えるのではなく、別の問いを立てるような返事になっていると、私は思う。具体的にどういうことか。
同性愛者は幸せになれない、だから人に嘘をつく、と湊は言う。
ここで、伏見校長が湊の思う「幸せ」の像に対して、こうだよ、という形で答えていたらどうだろうか。たとえば、「幸せには色んな形があるんだよ。だから君は幸せになれるよ」とか、「幸せは他人から決められるものじゃないよ、自分で決めるものだよ」とかだったとしたら、どうだろうか。いまよりも、随分ありふれた台詞になってしまうな、と私は思う。もちろん、間違ったことを言ってはいない。ただ、湊を慰めるようでいて、実は、性的少数者が特殊で異物的な存在であるという構図を認めてしまうような、そんなニュアンスを含む返答になっていないだろうか。
実際には伏見校長は、「しょうもない」と言う。そんなことは真にうけなくていい、と一蹴する。自分は幸せになれないなんて思う必要はない、と。
伏見校長は、「同性愛者は幸せになれないのか?」という疑問に対して、その問い自体が無意味だ、と答える。湊が実際に幸せになれるかどうか、ということよりも、彼の発言の背後にある、「幸せになれる者となれない者がいる」という、少し穿つと「負け組を回避して勝ち組に入ることが要請されている」的な人生観にも近いものを壊すような、そんな返答だ。
鑑賞者は、「同性愛者は幸せになれないのか?」という問いから解放される。代わりに、「我々は、幸せになれる人と、なれない人とを仕分けようとする見方を、捨てられるのか? 時に少数者が抱いてしまう、幸せの条件に適合しないという後ろめたさを、我々は、捨てることができるのか?」という、もっと普遍的な問いを投げかけられる。
同時に、この会話は、幸せの条件が、普通の家庭を持つことである、ということを保留する効果も持つ。幸せがどういう状態であるのか、湊の母や依里の父が言うことが正しいのかを保留して、一旦距離を置いてもよいのだ、と示唆される。
湊が、「自分のアイデンティティが幸せを遠ざける」と思い、それゆえアイデンティティを隠して生きようとする葛藤を、伏見校長が受け止め、優しく勇気づけてくれているように思える。
短いシーンではあるが、『怪物』という作品にとって肝になる場面だったと思う。しかし重苦しくなくさらりと見せてくれる。鑑賞者が今抱える、あるいはかつて抱えていた、誰にも言えない気持ちをも許してくれるような名場面だった。