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平成の大合併を振り返る〜奈良県を例に

これが記念すべき初投稿です。皆さんよろしく。

さて、自己紹介をする前に、私はプロフィールに「奈良県出身」と書きましたが、この表記にはこだわりがあります。個人的に、「○○市町村出身」「奈良出身」よりも、「奈良県出身」の方がしっくりくるんですわ。今回はここから話を広げていきたいなと思います。

まず、市町村ですね。私は現行の市町村があまり好きではありません。何が好きじゃないかというと多々あるのですが、その所以は「平成の大合併」に尽きます。行財政基盤強化のために市町村を合併したこの政策ですが、あらゆる意味で間違いでした。

第一に、財政基盤強化と言われるとなんだか良さげに聞こえますが、これは「地方の雇用削減」を意味します。複数あった役所が合併すると一つになり、例えば事務職などを中心に人員を削減できますね。総務省は合併を経た自治体の職員が減ったことを受けて「一定の効果があった」と評価しています。そして今、内閣府は地方において「地域社会の担い手が減少している」「地域経済が縮小している」として地方創生に取り組んでいます。

…いや馬鹿か?馬鹿なんですか?自ら雇用を削っておきながら今更何を、って感じですよね。そう、平成の大合併がなければ、つまり地方への財政支出を減らさなければ、地方の衰退も幾許か緩やかなものになっていたはずです。先日成立した菅政権は「自助」「改革」「既得権益打破」「縦割り行政打破」などを掲げていますが、これらは全て過去に財政支出を削減してきた政権が用いていた標語です。新政権に期待、なんて言ってられません。

そもそも「不景気の時は財政支出を増やしましょう」とか中学か高校で習ったと思うんだけど、まさか今が好景気な訳ないですよね。確かに財政赤字も深刻ですが、経済が停滞しているからこそ税収が減り財政難に陥っているのでは?とも考えられるし、実際そうだと主張する識者も徐々に増えているようです。ちなみに菅政権の発足時の支持率は74%だそうで、天を衝くほど高い水準です。今頃自民党は解散総選挙の準備で大忙しであること間違いありません。このままでは失われた30年が40年になるのも時間の問題でしょう。こんな調子で日本は大丈夫なのだろうか。祖国の前途を憂うる我が命の儚さよ…

いや〜、思いの外話が広がりましたね。本題に戻って平成の大合併が過ちである理由ですけども、第二に歴史や文化を蔑ろにしているから、という点が挙げられます。

これについては、奈良県葛城市の事例を見ていきたいと思います。葛城市は、平成の大合併の折に、北葛城郡新庄町と当麻町が合併して発足しました。北葛城郡は現存しており、王寺町など4町から成っています。かつては高田市、香芝市も北葛城郡でした。北のみならず、南葛城郡という郡もありました。これは今の御所市域と重なっており、現存しません。

このように、王寺から御所までの広い範囲を表す「葛城」という地名ですが、その中心はどこでしょうか。探してみると、「葛木」という大字は葛城市にあり、大字内に「葛木御縣神社」があります。これは「倭の六縣(六つの天皇の御料地)」に一箇所ずつ置かれた神社のうちの一つで、後の国分寺と似たような役割を担っているものと思われます。葛城市は、大字葛木のある旧新庄町を「古代葛城の県の中心地」としています。

一方で、御所市には「葛城小学校」「葛城郵便局」「葛城古道」など、葛城という名の付く施設が多く存在します。また、奈良県の名神大社(律令制下で国家祭祀の対象となった神社)で「葛木○○神社」と名乗る神社が4社あるうち、3社は御所市にあります。(残りの1社は葛城市忍海にあります。忍海は南北葛城の境界部にあり、飛鳥時代から明治に至るまで独立した郡でした。なお、前述の御縣神社は名神大社ではありません。)他にも、御所市には極楽寺ヒビキ遺跡や秋津遺跡など古代豪族葛城氏の拠点跡があったりするんですね。

ここから、御所市が古代豪族葛城氏の時代から昭和に至るまで一つの郡であり、葛城市は天皇が一時「葛城縣の中心」と定めたものの長続きせず名前だけ残った、という感じに見えます。私は葛城の中心は御所市じゃないかと思いますね。

長くなりましたが、要するに、広域地名を市名にするなや!ということでございます。何も知らない人が見たら葛城市こそが歴史ある「葛城」の中心で、御所市は一介の地方都市?みたいな理解になりかねません。

しかし、問題の本質はそういうことではなく、地名という地域の最重要事項がこんなガバガバでええのか、という点にあります。これは公募の後、新市名称候補選定小委員会による選定を経て、住民投票にかけられた7つの候補から決まった市名なのですが、その小委員会の委員を見てみましょう。

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お偉方がずらりと並んでいます。役所や議会の人間が商工会の代表と対等に議論できるとは思えません。少なくとも歴史家とか、民俗学者とか、地名研究家が入る余地は無さそうですね。これでは、元号制定のような慎重に慎重を重ねた議論は期待できません。そして、誰もこのことを問題として認識すらしていないですけど、この葛城市の市名の延長線上に「みどり市」「さくら市」「四国中央市」「つくばみらい市」などがあるのではないでしょうか。もし私がこのような名前の自治体に生まれていたら、間違いなく市外の高校に入り、東京の大学に行き、そのまま就職します。

何というのでしょう。言葉で表すのが難しいのですが、地方が格好付けようとすると必ずダサくなるのは皆さん共感して貰えますかね?それを象徴するのが「ゆるキャラ」です。ひこにゃん、くまモンといった人気キャラクターの下に一体どれほどのキャラクターが埋没しているのか、想像しただけでもゾッとします。なんと言っても税金が埋没しているんですから。地元住民からしか応援されないゆるキャラなど何の価値もありません。今からでも遅くないから、その金を文化財保護や福祉増進、教育などに充てましょう。

地名もゆるキャラもそうですが、根底に地方の「歴史忌避」「過去忌避」があるのではないでしょうか。つまり、田舎だったこれまでとは違う、明るい未来を建設するのだという意気込みが空回りし、地域の風土が蔑ろにされている現状があると思います。加えて閉鎖的な社会が古い価値観や流行、あるいは広告代理店への丸投げを許してしまうことで、比類なきダサい田舎が完成する、といった所です。東京や大阪の駅前に「明るい 未来の 東京都」とかそんな看板は一つもないのに、地方はそういう看板を恥ずかしげもなく平気で立ててしまうのです。

悠遠の歴史と共に歩んできた奈良県においても、立派な城郭の草刈りもろくにせぬまま「盆梅展」とかの派手な看板だけはこまめに取り替える市、聖徳太子の巨体カカシを設置している町など、歴史を尊びたいのか貶したいのかわからない自治体が沢山あるそうですよ。本筋じゃないからあんまり言わないけど、大和郡山市には言いたいことが沢山あります。石垣の雑草や看板は全て撤去して頂きたいし、貴重な総構えの堀を埋めたりするのも再考すべきだと思います。

完全に話が脱線したのでまとめると、地方は(本来なら強みであるはずの)歴史を軽視する傾向があり、それが平成の大合併では地名という点に噴出した、とでも言えば良いでしょうかね。

ちなみに、話を戻しますけど、當麻町の住民投票では両町の合併について賛成42%に対して反対52%で反対多数であり、新庄町でも賛成49%に対して反対46%と賛否が拮抗しました。しかし、その民意は顧みられず、新市名だけは民意で決まりました。とんだ茶番ですね。

平成の大合併が誤りである理由、第三は、広域行政の枠組みを無視した合併が横行したからです。これも奈良県の奈良市の事例を参考にしたいと思います。

奈良市は平成の大合併で添上郡月ヶ瀬村、山辺郡都祁村を編入しました。さらに、平成の大合併が終了した後に奈良県が発表した合併推進構想では、奈良市と山辺郡山添村の合併が推進されています。

しかしながら、これらの3村は、奈良市より天理市との結び付きが強かったと言えます。3村は1971年に天理市と山辺広域市町村圏協議会を結成し、警察、消防、ごみ処理、道路建設など多様な分野で一体となって行政を展開してきました。後に磯城郡の各市町村も協議会に加わり、平成の大合併まで枠組みとして機能しました。これが、平成の大合併で月ヶ瀬村と都祁村が奈良市に編入されたことによって枠組みから離脱、山添村が飛地になってしまいました。

平成の大合併の目的の一つに「行政サービスの広域化による利便性向上」が掲げられているにも関わらず、合併が原因で従来の広域行政の枠組みが寸断されてしまうなんて、残念どころではないですね。

それなら山添村も合併推進構想の通り奈良市と合併すれば良いのでは、という意見が出るかと思いますが、それは難しいでしょう。何故なら、合併後、合併した2村が行政サービスの削減と増税に見舞われているからです。先程も述べたように、大合併の本義は地方の雇用削減ですから、行政サービス削減は当たり前のことと言えます。その上、税制が奈良市のものと統一されたことで不運にも増税となったようです。このような現状を見せられた以上、山添村民が奈良市との合併を選択することは有り得ないですね。奈良市と広域行政組合を設立しても行政サービスが以前の水準に戻ることはないでしょう。手っ取り早い改善策としては、奈良市のうち合併した2村だけ天理との広域行政組合に再加入することが考えられます。ただ、それなら何のために合併したの?ということになるので奈良市が認めてくれないでしょうから、2村が奈良市から独立した上で、山添村を加えた3村で合併するのが最善かと思います。流石に一度潰した役所や議会を再建するのは厳しいですから。いずれにせよ易々とできることではありません。

そうなってくると、何故2村が天理市ではなく奈良市との合併を選択したのか、という疑問が浮かんできます。しかも、奈良県が平成の大合併の前に示した合併推進要綱では、既存の広域行政の枠組みを活かして3村は天理市と合併し、磯城郡についても天理市との合併を検討する案が掲載されています。

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これが覆され、何故2村が天理市ではなく奈良市との合併を選択したのか、謎が深まりますね。ネットで検索しても埒があかないので、県立図書館に出向いて市町村史を調べました。noteに対する本気度、やる気が伺えます。

すると、平成の大合併が政府の方針として固まってきた頃、山添村も含む3村で市町村合併の研究会を設立し、以来調査研究を重ねていたことがわかりました。やっぱりこの3村は団結が強かったようです。

それ以外は何もわかりませんでした。はぁー、もう疲れたよパトラッシュ。

ネットには「天理市」という市名を嫌ったという説があります。余談ですが、日本で民間団体の名前が冠されている自治体はたったの2箇所しかありません。愛知県豊田市と、奈良県天理市です。なるほど、天理教は世界一の自動車メーカーと同格だったのですね。冗談はさておき、地名は大切ですから、充分有り得る説だと思います。

その他に考えられる原因は、両市それぞれと合併した場合の合併効果、つまり合併特例債や地方交付税交付金の増減を計算して、奈良市との合併の方が得すると判断したから、というものですね。地方交付税はともかく、合併特例債は基本的に地方債なので、大きな自治体ほど多く発行できるのではないかと思います。

確証はないし、すっきりしたものでもありませんが、このような事情を考慮して2村は奈良市との合併を選び、山添村は現状維持を選んだという結論になります。どこにも奈良市を選んだ理由が明記されていないのは、天理市への誠意という意味もあるかもしれません。

とにかく、国の制度設計がまずかったし、昭和の大合併と比べて世論が盛り上がらなかったこともあって、行政水準の低下を招く合併が全国で起こってしまったわけですね。試みに「大垣市」「桐生市」の地図を見てみましょう。

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笑っている場合ではないですよ。これは日本の自治制度の産物です。私やあなたの住む自治体が過去こうなったかもしれず、また将来こうなるかもしれない、ということです。山間部の古い入会地がそのまま残って飛地になった、とかなら許せますが、このような「分裂市町村」はとても看過できる代物ではありません。

ちなみに、平成の大合併後も唯一存続している3村(正確には奈良市のうち旧月ヶ瀬村及び旧都祁村の地域と山添村)の広域組合として、山辺環境衛生組合があります。この組合の業務は「し尿処理」、つまり汲み取り式便所から大小便を回収し、それを処理するというものです。旧奈良市では下水道が整備されていて、基本的にし尿処理はやっていませんから、仕方なく存置されているのです。

さて、ここまで平成の大合併が過ちである理由を散々述べてきましたが、本当に調べれば調べるほど日本の市町村が置かれている状況の深刻さが浮かび上がってきました。「地方自治は民主主義の学校」という言葉は有名ですが、日本中で学級崩壊が起きているという感じですかね。地方の雇用を自ら減らす、歴史も調べず地名を決めてしまう、行政の質もみすみす落としてしまう、このような市町村の迷走には、日本で如何に民主主義が受容されていないかが現れているのです。歴史を振り返れば、ナチスを生み出したのも民主主義だし、目下世界最大の軍事国家は世界最古の民主主義国家とも言えます。確かに、独裁制よりは民主制の方が優れています。しかし、民主主義が持つ恐ろしさを理解せず放置したならば、それはいつしか危険思想となり、最終的な破滅をもたらすでしょう。

いくら綺麗事を並べようと、我が国の民主主義は明治天皇とマッカーサーから下賜されたものであり、そういう意味では韓国や台湾より下です。だからといって今から天皇を倒して革命を起こす必要はありません。国民各自が主権者としての自覚を持って行動すれば、自ずと民主主義は成長するはずです。折しも独裁国家が覇権を唱える今日この頃、我々は民主主義の深化を以て防衛線を築く他ありません。

長くなってきたので一旦終わります。次回は「奈良と奈良県の違い」的なことを書く予定です。自己紹介は次々回以降になります。


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