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書評:佐藤優『生き抜くためのドストエフスキー入門 「五大長編」集中講義』

類い稀なるパーソナリティが読むドストエフスキー

今回ご紹介するのは、佐藤優『生き抜くためのドストエフスキー入門』という最近の著作。

佐藤氏はもはや説明不要な有名文筆家であるが、彼がドストエフスキーを語ることの魅力についていくつか紹介したいと思う。

著者自身は本著の中で、ドストエフスキー読みとして自身が特有の視座を有する理由を3点挙げている。

①キリスト教信仰および神学のバックグラウンド
②外交官時代のロシア在住経験(8年弱)で培われたロシアに生きることの肌感覚
③拘置所生活・有罪判決・執行猶予期間の経験

著者はこれらのうち1つまたは2つまでを有する著名なドストエフスキー読みはいるが(例えば日本では埴谷雄高や内村剛介)、3つを有するのは自身だけではないかと述べている。

私も本当にその通りだと思う。
ドストエフスキー読みとして得難き経験を著者が持っているのは間違いなく、その視座から生まれるドストエフスキー解釈はドストエフスキーファンにとっては読む前から垂涎ものだろう。

私は著者が自ら掲げた上記3点の魅力を全面的に肯定しつつ、著者は更にドストエフスキー読みとしての魅力を備えていると思っている。

それは、著者の情報分析(インテリジェンス)系の実務経験と実績だ。
現実に対し、事実を正確に知ること、その構造や因果関係を読み解くこと、そこから近未来の予測を仮説として打ち立て発信すること。
こうした著者の生業は、ドストエフスキー文学を現実に生きる文学として読み解く上で有益な力になるに違いなものだと思われる。

それは私が、ドストエフスキー文学は内的精神世界を掘り下げた文学に留まらず、極めて社会的なメッセージを放つ作品だと思うからに他ならない。

私が本著の発刊予定を知った際に垂涎した佐藤氏の魅力は、前述の①②と、この点の3点であった。

さて本著であるが、面白いことは保証しよう。
ドストエフスキーは色んな読み方ができ、原作を読むだけではなく色んな読み方に触れる(≒色んな評論に触れる)のがまたその楽しみの1つであり、本著もその1つとして十分な輝きを放っている。

ただこの投稿では、その内容を深く追うことはせず、本著を読んで私の頭に浮かんだ派生トピックについて綴ってみたいと思う。
(著作の紹介にならない内容となるため、申し訳ない。)

①「資本主義」と「精神」というキーワードを巡る話題

本著は、ドストエフスキーを「資本主義が迫り来る時代におけるロシアおよび世界の精神的変容を描いた作家と捉えたとしたら」という視点を1つの切り口として書かれている。

「資本主義」と「精神」というキーワードを見ると、ある著作を思い出す方がいるかもしれない。

私の念頭にあるのは、マックス・ヴェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』だ。
(過去の投稿で紹介済。)

もし仮に、何の前情報もなしに「資本主義」と「精神」という2つのキーワードを含むテーマを思い浮かべるならば、どんなテーマが浮かぶであろうか。

多くの人は、「資本主義の発展により、そこに生きる人々の精神がどうなっていくか」というテーマを思い浮かべるのではないだろうか。

つまり、「精神」とはあくまで「人の精神」であるという理解を前提としたテーマ想起だ。
これは、そもそも「精神」という概念が人のものであることを考えると、全くもって自然な想起であろう。

著者によれば、ドストエフスキーが描いたのは正にこのテーマであり、西洋から押し寄せる資本主義がロシア人の精神をどう変容させていくかがそこには描かれており、その洞察はロシアに留まらず普遍性を持つ、としている。
私も同感だ。

しかし、ヴェーバーの『プロ倫』における「精神」という言葉をこの意味として理解し同著を読もうとすると、実は理解が難しくなる。

詳しくは過去投稿に譲るが、ヴェーバーが論じたのは「資本主義という仕組みの性質」、「資本主義という社会的動力そのものの性質」についてであった。
それをヴェーバーは「資本主義の精神」と言った。

だから、『プロ倫』を読む際は、タイトルに惑わされず、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の性質』とか、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の特徴』というタイトルの本だと思って読んだ方が、その内容はすんなり入ってくるのだ。

まあ、このようにタイトルを読み替えてしまうと、何故か中二病的カッコよさが一気に減退してしまうのであるが・・。

②資本主義の結果系と原因系を巡るロシア文学

ドストエフスキーの文学を資本主義が人々にもたらす精神的変容という切り口、即ち資本主義の結果系への洞察として読むならば、これらと対にして読みたいロシア文学がある。

それはトルストイ『復活』だ。

『復活』も過去投稿にあるので詳しくはそちらに譲るが、当作は資本主義の原因系(何故資本主義という仕組みが生まれるのか)に対する大変穿った洞察が光る作品だ。

ドストエフスキーとトルストイはファンの好みのレベルからその文学性に至るまで、比較のテーマとして扱われることが多く、今回の佐藤氏の著作でもその点を意識した記述が多く見られる。

しかし私はロシア文学ファンとして、両者の比較だけではなく、時には両者が補完し合う関係にあるという視点を持つならば、まさしくこの資本主義というテーマを巡る原因系と結果系への洞察がその補完関係の最たるものではないかと思っている。

このように捉えると、ロシア文学が総体として持つ味わい深さにまた1つ気付くことができるのではないだろうか。

③「無神論」と「無「信」論」

「無神論」という言葉がある。

これは、「神をはじめとした超自然的な存在など、超越論的な概念が示すものなど存在しない。またはそうした概念は世界の説明に必要がない」という立場を示す言葉だ。

このように言葉の意味を紐解くならば、「無神論」という言葉はキリスト教をはじめとした一神教的な発想・伝統へのアンチ・テーゼとして位置付けられるものであると推察されよう。

しかし他方、日本人が「私は無神論者です」という時、そうした本来の意味よりもむしろ、「私は特定の信仰を奉じていません」、「私は特定の宗教団体に所属していません」という意味で使われていると感じないだろうか。

仮に日本人的な無神論という言葉の使い方をより正確に反映した言葉を作るならば、「無「信」論」(信=信仰)という言葉の方がしっくりくるように私は思う。

前述のように、キリスト教は神の存在を前提とする一神教であるため、その文化圏においては、神の存在を否定することと特定の信仰を奉じないことはほぼ同義であるということができ、「無神論」という言葉で包含的に表象することができるのであろう。

しかし世界に存在する宗教は一神教だけではない。
一神教以外の文化圏では、「神(や超越的存在)を否定すること」と「特定の信仰を奉じない」こととは必ずしも同義ではない。

ある統計では、日本で初詣に行く人は毎年約9,900万人だそうだ。
この統計の信憑性は一旦傍に置くとするならば、日本では8割以上の人が何らかの宗教的行動を取っていると言うことができそうである。
この中には、ガチで願を掛ける人、真剣にご利益を信じている人もそれなりにいることだろう。

それでも恐らくこれらのうち多くの人が「私は「無「信」論者」です」と言うのだろうと私は予想している。

これは明らかに、「合理的でない、自然的でない超越的存在を否定する」という「無神論」の立場とは異質なものだ。

佐藤氏もそうなのだが、キリスト教(および一神教)を宗教の典型的なモデルとして理解する人には、日本人の「無「信」論」がちょっと理解しづらいのではないか、と思うところがある。

佐藤氏はその信仰心理解を大いに自身のプロテスタント信仰に負っており、そのためか日本の特定の宗教団体を論じる際、その会員の信仰心の性質については必ずしも正しく理解できていないのではないかと思える。

例えば、佐藤氏は近年言論人では珍しく積極的に創価学会および公明党を支持しているが、その社会運動や社会貢献への評価の質の高さに比して、創価学会員の信仰心に対する理解は自身のプロテスタント信仰のアナロジーとしてしか捉えられておらず、正直正しく理解できていないように思えるのだ。

宗教論議では彼のプロテスタント信者という出自は生きているだろうが、「信仰心」論議となると彼の信仰は逆に他信仰理解の足枷となっているという印象が否めない。

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今回の投稿は、純粋な著作紹介の要素はほとんどなく、読書を契機とした私の想起を出力したものとなった。

私の個人的なメモのような投稿であり、参考となる書籍を探す方にはゴミ投稿と映るかもしれないが、ご海容いただけると幸いである。

読了難易度:★☆☆☆☆
テーマ選択魅力度:★★★★☆
著者バックグラウンド魅力度:★★★★★
トータルオススメ度:★★★★★

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