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千字薬-本田宗一郎から学んだことども-Ⅲ.1980年代

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ホンダのカー・デザイナーとして、経営陣のひとりとして、デザインと経営を見つめてきた経験を1エピソード、千字で書き綴った連載。(初出:1998年) 1980年代(40代–不惑)
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2020年11月の記事一覧

第120話.「安全なくしてデザインなし」

1984年あるメーカーの車で、幼児がドアガラスに首を挟まれて死んだ。自動車開発に関わる者なら…

岩倉信弥
3年前

第119話.だんちりや

1984年週明け、オハイオ州との公式な行事を終えた本田技研社長が、HAM(ホンダオハイオ工場)…

岩倉信弥
3年前
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第118話.後悔、先に立たず

1984年3代目「ホンダシビック」が間もなく、HAM(ホンダオハイオ工場)で立ち上がろうとして…

岩倉信弥
3年前

第117話.禁じ手

1984年何故こんなに、量産立ち上がりが難しくなってしまったのか。振り返って考えてみると、今…

岩倉信弥
3年前
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第116話.オハイオに飛ぶ

1984年HAM(ホンダオハイオ工場)では、第一弾の2代目アコードに続き、3代目「ホンダシビッ…

岩倉信弥
3年前
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第115話.エアロデッキ誕生

1983年3代目「ホンダアコード」4ドアセダンのコストを、目標値におさめるため、急遽サスペンシ…

岩倉信弥
3年前
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第114話.ダブル・ウィッシュボーン・サス

1983年プレリュードのような低全高スタイルを求め、前後のシートの位置を下げ、しかもファミリー4ドアセダンとしての居住性を確保しようとすると、当然、ホイールベースやルーフ長が伸びる。結果、ホイールベースは回転半径に、ルーフ長はシルエットに大きな影響を及ぼす。 もちろん、屋根を下げると、乗り降りの際の頭の抜きに大きく関わってくる。一つのことをやろうとすると新たな難題にぶつかり、それを乗り超えるとまた次が、という具合であった。こうしたジレンマを抱えながら、3代目「ホンダアコード」

第113話. プレリュード・4ドア

1983年「おい、次のアコード、どうするんだよ」と、通りすがりざま本田技研専務に問いかけられ…

岩倉信弥
3年前
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第112話. パイプ・インパネ

1983年インテリアデザインの方も、エクステリア同様に人手がなかった。一番手間ひまのかかるの…

岩倉信弥
3年前
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第111話.全身是居住性

1983年大阪支店の要請による、関西地域のプリモ店大会でのスピーチを無事に終え、東京に戻って…

岩倉信弥
3年前
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第110話.早くボンバンを

1983年関西地域のプリモ店大会が、大阪支店の主催で行われることになり、そこでのスピーチを依…

岩倉信弥
3年前
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第109話.エンジンは何処に

1983年軽の復活をかけて、先行検討が進められていた。出来上がったイメージモックアップモデル…

岩倉信弥
3年前
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第108話.非理法権天

1983年コベントリーからヒースロー空港に向かう車中でのこと。後席には、ローバー社とのプロジ…

岩倉信弥
3年前

第107話.「島国根性」と「海賊魂」

1983年こんな事例もあった。ボンネットの高さは、エンジンのレイアウトや運転者の視界の設定のため早くに定めておく必要がある。この車のエンジンは、ホンダのV6とローバー社のL4(直列4気筒)の混載が決まっていた。 ホンダがV6エンジンを低いボンネットに納まるようレイアウトしたのに対し、ローバー社の方は、L4エンジンのヘッド(頭)の位置が50mmほど高い。これをホンダ並に下げて欲しいと要求するのだが、「その必要はない」との一点張り。 こちらがあまりしつこく頼むものだから、彼らも「