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第108話.非理法権天

1983年

コベントリーからヒースロー空港に向かう車中でのこと。後席には、ローバー社とのプロジェクト推進責任者である本田技研専務、他には、イギリス人のショファーとその隣に座っている私の三人である。
イギリスでの2週間の滞在は、折衝につぐ折衝でさすがにくたくただった。専務は休んでおられるご様子。私は田園風景をぼんやり眺めているうち、ついうとうと。「駅弁、食べたいなあ」という自分の声で目が覚めた。
「しまった」と思った瞬間うしろから、「まだまだ、駄目だね」と。悔しまぎれも手伝って、「今回のジョイントプロジェクト、本当にやるんですか」と聞いてみた。「当然だ」と強い語気で。
この頃、研究所の若い連中の多くは、海外メーカーと二人三脚でやるより自分達のやりたいことをやるべき、との意見が強かった。欧州現法の口の悪いのにかかると、「ジ・エンド・オブ・ザ・ビギニング・オブ・ホンダ」とまで言われていた。
専務に「どうして、ですか」と聞き返すと、「どうしてもだ」と一喝。それで私も、「いいこと、あるんですか」と返す。もちろん、すでにいろんな検討が進んでいて、こちらも、その辺は十分承知した上で駄々をこねているのである。
しばらくおいて、「あのなぁ、お前さんのような、こんなとこまで来て駅弁を食いたいと言う輩が、英語の一つも覚えられれば、めっけもんだよ」と言われてしまった。専務も困っておられるのだとお察しする。しかし、私はその時、なんといい会社で、いい上司に恵まれ、好きな仕事ができていることかと感謝した。
その後、ヒースロー空港まで専務は無言のままだった。私も、二度とこの件は口に出すまいと心に。日本に帰って数日後、研究所の幹部に集まるよう指令があり、専務から次のような話があった。「非理法権天」という話である。昔、中国の偉い人が言った言葉だそうで、意味はこうである。「非は理に勝てず、理は法に勝てず、法は権力に勝てない。しかし、いかに権力を手に入れても、天の声には勝てない」と言うことらしい。
勿論この話に至るまでには、理屈ばっかりこねて自分を通そうと反対ばかりしている連中に、何と言ってやれば良いかと、専務としては、よくよく考えられてのことであったのだろう。
話が終わって、「何だか良く分からないな」とぶつぶつ言いながらも、本当は専務の言いたいことをみんなよく分かっていた。その日から誰からも、後ろ向きの発言は出なくなった。

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