見出し画像

第119話.だんちりや

1984年

週明け、オハイオ州との公式な行事を終えた本田技研社長が、HAM(ホンダオハイオ工場)に現れる。3代目「ホンダシビック」の量産試作車が、土曜日の日米スタッフによる共同作業で、何とか最低限のレベルに組み上がっていた。思っていた通り社長は、終始むつかしい顔をして、外から眺めたり中に座って見たり触ったり動かしたり。そして「こりゃあ大変だ」と言ったきりホテルへ。
我々は慣れっこだが、アメリカ人スタッフはきょとんとしたまま。ことの次第を、彼らに解説するのに一苦労。そこへ電話が入り、社長の泊まっているコロンバスのホテルへくるようにと。みんなからの「よろしく」との声援を背に、「仕方ないか」とホテルへ向かう。
部屋では、歴代社長の通訳を担当してきたKさんが、社長となにやら話し中。彼は、私にとって大先輩であり、RG社(ローバーグループ)との共同開発で苦楽を共にした戦友でもある。こちらを向くなり「相変わらず大変だね」と明るい声、急に肩の力が抜けた。
社長から「立ち上がりまで、どのくらいなんだ」といきなり。「二ヶ月ちょっとです」「何とかなるのか」「するしかありません」「目算は」と立て続けである。私は、先週末から2日間にわたる顛末を説明し、これから立ち上がりまで、問題解決のための方策として、工場とメーカーさんのフォローは日本人とアメリカ人スタッフが二人一組になって推進することを提案した。
「そんなことで、うまく行くのかよ」「はい。鈴鹿製のシビックを目標にして、毎朝、それをみんなで拝みます」「何か、日本人とアメリカ人が、心ひとつになるための良い『一口言葉』はないかね」と心配顔。
急に言われても、おいそれと良いアイデアが出るものではない。しばらく考えて、鈴鹿での立ち上がりフォローの時、苦し紛れに洒落てつくった都々逸もどきを思い出し紙に書いた。「だんちりや あわせたてつけ ぬるぴかつる ぽろりはがれや いろつやしぼかな」と。
社長はそれを読んで「何じゃこりゃ」としばらく眺めたあと、「おい、Kさんよ。これ英語にならんか」と。「えっ、これをですか」と絶句のあと、しばらく悪戦苦闘のKさん。が、英語の名人もさすがにお手上げだったらしく「このまま日本語で行きましょう」と言うことになる。
2ヶ月後、シビックの量産は無事立ち上がった。あのとき書いた「だんちりや…」は、しばらくの間、HAMに隣接する研究所の壁に貼られてあったという。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?