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離れない不安を吐露したい②

さて、仕事が少し落ち着いたので続きを書きます。リモートワーク万歳ですね。


前回は高校性のころまでを振り返りました。

高校生の頃の僕は、部活と勉強しかしていませんでした。それでいいとおもっていましたが、やっぱり一人でした。高校の時の友人なんて、もういないに等しいと思います。

私は行きたい大学に行くことができました。なぜ行きたかったのかを明確に言うことは難しいのですが、進路に公開はありません。多分、私の人生でよかったといえることの一つは、高校で必死で部活をやったことと、満足できる大学に入れたこと、その2点です。

大学は、本当に一般的な学生をやっていました。それなりに順調だったと思うのです(今となってはそれも虚構の上に成り立っていたものだと分かります)。しかし、母親が病気で死にました。

母の病気は私が中学生のころに発症しました。当時、高校受験で必死だった私に、母は何も言いませんでした。それはそうだと思います。イジメられて、友達もいなくて、勉強だけが逃げ道だった私に、余計な不安は与えたくなかったのでしょう。でも、高校卒業間際、いよいよ母の体はまずくなってきて、別居していた父も看病を兼ねて家に戻りました。そうして、あっという間にやせ細り、立てなくなり、言葉を話せなくなり、死んでしまいました。

私は当時、大学になじめていると思っていて、今までとは違う、友達がいる空間を楽しんでいました。大学デビューと言うやつで、楽しかったように思います。その一方で、家に帰ると母が苦しんでいるわけです。看病するたび軽くなる母の体に触れるたび、苦しいほどの罪悪感に苛まれました。僕は母に何かをしてやれただろうか。いや、してやれていないんです。迷惑と心配を(それも、恐らくフツウの家の子が親にかけなくてよかったそれを)かけてばかりで、母の負担にしかなっていませんでした。悲観的に捉えているとかそういうことではなく、だれがどう見てもそういう状況なんです。自虐的に言っているわけではないんです。そんな思いを抱えた矢先、母は死にました。19歳の頃でした。

19歳とは、実に半端者です。大人になれていると自分では思いつつも、やっぱり未熟なのです。そして、未熟だった私は、その死を受け入れるまでに時間がかかりました。親には頼っていないようで、ものすごく頼っていたのだと、その時初めて気付きました。「存在している」という当たり前がどれほど自分の心に安寧をもたらしていたのかを、「帰る場所がある」「受け入れてくれる人がいる」ということが、どれだけ価値があったのかを、初めて知ったのです。

私は、大げさに言えば母に頼らない自分を作り上げる、ということで自分の身を守りました。マザコンなのかと思われるかもしれませんが全くそんなことではないです。まだ独り立ちすらできていなかった私にとって、その足元を支えてくれていた親を失うというのは、人との別れの悲しさと同時に、自分と言う存在の不安定さを感じずにはいられなかったということです。心に蓋をして、何も感じないように努めました。何も感じなければ、だれに頼る必要もありません。そうして自分を守るようにしました。ですがそれは、人付き合いが苦手な私をおかしな形で歪ませてしまったのだと今になって思います。まるで、剥がしてはいけないくらい大きく未熟な心のかさぶたが、どんどん厚くなっていくようなイメージでした。

それから、祖父母が母方も父方も死に、ペットも死に、親戚も…と、恐らくですが私は人よりも死に直面してきました。人の最期を見るたびに、もちろん辛く苦しいのですが、どこか心がマヒしているような気持になりました。慣れてはいけないものに慣れてしまったのだと思います。

なお、大学生活自体は形式的には極めて一般的なものだったと思います。形式的には、と書いたのは、何となくその場で楽しむことはできるけど、どこか遠く感じるということをいつも繰り返していたからです。その時その時は楽しいのだけれど、どこかみんなが遠く感じる。私はあまり二人での遊びと言うものに誘われたことがありません。二人になるとその遠さが際立つから、私にとっても居心地が悪いし、たぶん皆にもそう思われていたんだと思います。決して嫌いなわけではない、むしろ仲良くなりたいけれど、どうしても人の心に踏み込めないのです。それは、踏み込み方が分からないのと、踏み込むこと自体がこれまでの経験から言って怖いのと、色々な思いが錯綜していたからでしょう。これがまた、私の心のかさぶたを厚くしていきました。

続きはまた気が向いたら書くようにします。

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