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【本紹介なんて、始めなければよかった】

「本紹介なんて始めなければ良かった」

時々そんなことを思うことがあった。(今ではないないです)

本格的にInstagramで本の紹介をするようになってから3年くらい経ち、10万人以上の方に見ていただけるようになりました。

それと同時に(食えるとかそういうレベルではないが)、一定の収益もいただけるようになり、少したいそうな言い方ではあるが、一つの仕事のようなものになっている。

そんな読書生活と紹介生活を送っている中で、ふと考えることがある。

「紹介のために本を読むようになっていないか?」

これでは本末転倒であるが、やはり承認欲求はある。そして、いいね数やフォロワー数などの数字にも目がいってしまう。

本紹介を始めてフォロワー数の伸びが軌道に乗り出した時には、“自分が読みたい本”という読書において最も大切なはずの感覚が鈍った。

気になる子にもともと好きじゃなかった歌手をすすめられ、なんとなく聴いてしまうような感覚で、見る人に喜ばれやすそうな“紹介するため”の本を読むことが多くなっていた

そういうことを3カ月くらい続けたときに、ほとんどの読書は“紹介し得るかどうか”を評価するためのこなす作業に変わり、自分が楽しむためではなく、紹介のために読書をしていた。
(紹介本の決め方について最後の感想で詳しく書きます。)

趣味が趣味でなくなり、単なる作業になりかけた時、得るモノ以上の何かを失いかけていることに気付く。

ただ、そんな読書の中に転機となる本があった。

『映画を早送りで観る人たち』という本だ。

ざっくり説明すると、コンテンツ大量消費社会が到来した現代における映画産業を取り巻く状況の変化が述べられている。

この本の中の「鑑賞」と「消費」に対する話が非常に印象的だ。

「鑑賞」は、その行為を目的とする。描かれているモチーフやテーマが崇高か否か、芸術性が高いか低いかは問題ではない。ただ作品に触れること、味わうこと、没頭すること。それらそのものが独立した喜び・悦びの大半を構成している場合、これを鑑賞と呼ぶ。

稲田豊史(2022年)『映画を早送りで観る人たち』光文社新書

「消費」という行為には、別の実利的な目的が設定されている。映画作品で言うなら、「見たことで世の中の話題についていける」「他者とのコミュニケーションが捗る」の類だ。

稲田豊史(2022年)『映画を早送りで観る人たち』光文社新書

言ってしまえば、「鑑賞」とは趣味であり、「消費」とは現代を生き抜くためのツール獲得のための作業なのだろう。

「鑑賞」という“行為そのものを目的とした行為”には、例えば本が自分に合わなくても、読書という行為をしたこと自体が喜びに繋がる。

読書そのものを喜べる人間にとっては、本が面白いかどうか、良書か悪書かは二の次なのだ。
(面白くない本もそれはそれで楽しめるし、悪書は悪書で面白がれる。)

対して、「消費」という“行為の外側に目的を設定した行為”では、こうはならない。

例えば、僕が陥っていた「紹介のための読書」は、紹介し得る本なのかという評価軸に沿うかどうかで、読書の価値が決まる。仮に自分が面白い本だと思っても、紹介ができない本であれば、読書する意味がなくなってしまう。

趣味(鑑賞)は自分軸だが、作業(消費)は他人軸である

そして、自分軸の行為だけが自分を幸せにすることは、数多の本の語るところだ。

アカウントが軌道に乗り出してから本書に出会うまでの少しの期間、こんな当たり前なことを忘れ、全ての本に「紹介し得るかどうか」というしょうもない評価をしながら、他人軸の読書をしていた。

このことに気付いてからは、こういう評価は後から考えている。

「読みたいときに読みたい本を読みたいように読む」

読書という行為が始まって完結するまでは、この自分自身の読書の理念を徹底する。
(本選びから読書だと思ってます)

そして、この自分のための趣味としての読書を終えた後、紹介のために評価し直す。

我々が趣味から何らかの利益を得ようと思うときには、必ずこの趣味と作業のバランスを意識することが大切になるだろう。

感想

今日話した話は、趣味から利益を得ている、或いは、得たいと考えている方は、感じることもあることではないでしょうか。
(ここでいう利益はお金には限りません)

もちろん仕事にすると、割り切ってしまってもいいのかもしれません。

たとえ、その仕事から大きな利益を得られたとしても、趣味が人生に与えるモノの大きさも忘れてはいけないと思います。

そして、一度、仕事と割り切ってしまった趣味は、二度とただの趣味には戻ってくれません。

僕も読書がそうなる前に趣味に戻すことができ、心から良かったと思っています。
(仕事と割り切った方が得られる収益は確実に大きいです。)

最後に、話は少し変わって僕がフィード投稿で紹介する本はどのように決めているのかについてお話しします。

これについては、案外話したことがなかったと思うので、頑張って書いていきます。

実は、『映画を早送りで観る人たち』を読む前後で変わっているんですよね。

読む以前は、自分の好き嫌いを排して、分かりやすさと有益さを見て紹介していました。

簡単に言えば、学び取れる内容が多く、その上で全体を通して分かりやすい本を紹介していました。

逆に、論理的に破綻しているように感じる本や学べる内容が少ない本、情報のソースに信憑性がない本は完全に除外していました。

そして、現在でも、このような基準は読後に考えています。

ただ、『映画を早送りで観る人たち』を読んだ以降に大きく変わったのは、自分が面白い本と思った本は、先の基準から多少外れていても紹介するようにしました。

逆に全く面白くないと思ってしまった本は、どれだけ有益で分かりやすくても紹介しないようにしました。
(論理的に破綻しているように感じる本・情報のソースに信憑性が薄い本、これらだけは今でも絶対に紹介しないようにしています。)

最もいい例が、岩波書店をはじめとした学術文庫やエッセイです。

僕と似た形式の本紹介をしている本の発信者の中で、この類を投稿している人はほとんどいないと思います。

恐らく読まない、或いは、伸びないからでしょう。

しかし、僕はただ読まれそうな本、紹介できそうな本を選んでいては、読書そのものを楽しめないということを再認識し、また、誰よりも読書を楽しんでいる人間でないと、いい本の発信はできないと考えを改めました。

その結果、「これ誰が読むねん!」みたいな本でも、自分が面白いと感じて学びがある本であれば、紹介本に入れるようにしています。(笑)

これからも「”ちょっと”知的な本紹介」をよろしくお願いいたします!!


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