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【本を読む意味】世界は言葉でできている

どうも!しんやです。

ずっと先延ばしにしてきたnoteですが、さすがに書ききらないとと思って、このnoteを書いています。

というのも、ここまでに、下書きは7個ほどあるのですが、ずっと書き直していると何がいいのかわからなくなったので、心機一転、このnoteを書き始めています。

このnoteは、何かといろんな場所で聞かれることが多い【読書する意味】に関する僕の一つの結論とそこに至るまでの考えのプロセスです。

15分くらいでサクッと読める内容にしたので、時間があるタイミングで読んでいただけると、うれしいです。

それでは、さっそく本題に入ります。

はじめに

どんな本でも言葉で書かれている。

だから、今回は【本を読む意味】ということを考えるために言葉について考えるところから始めてみる。

まず、言葉を考えるために言葉について書かれた本を思い出してみる。

最も記憶に新しいものとしては、『ワニはいかにして愛を語り合うのか』という本だ。

この本を簡単に説明すると、人間の男女のコミュニケーションを二人の動物行動学者が考察した本であり、本書の中で下記のように動物の言語と人間の言語の違いについて、語られている。

右とか左くらいの概念だったらまだいいけど、「未来」とか「過去」とか「一般に」とかいう抽象概念をことばなしで説明したり自分でも考えたりするというのは大変なことでしょう。(中略)
結局、人間というのは抽象概念をことばで表現するようになった時、人間以外の動物とは一線を画したんですね。

日髙敏隆・竹内久美子,『ワニはいかにして愛を語り合うのか』,新潮社,1992年

本書において、人類の言葉は抽象概念を切り分けるために存在していると言われている。そして、それこそが他の動物との違いである。

ここで言う抽象概念は、もちろん引用文のようなものを指すが、それ以外にも固有名詞ではないものも指している。

例えば、色を見てみても、インペリアルレッドとかヴァーミリオンとかいろんな赤色があるが、それらすべてを含めて赤と呼んでいる。これも一種の具体的な個別の色を抽象化した呼び名だろう。

また、『ワニはいかにして愛を語り合うのか』の著者・日髙敏隆さんが訳した本にユクスキュルの『生物から見た世界』という本がある。

この本は、古典的な生物学の本であり、少し読むのには苦労するが、簡単に言うと、人間を含めた生物はその周辺環境を生物ごとに違った世界(環世界)として認識しているということが書かれている。

客観的に記述されうる環境というものはあるかもしれないが、その中にいるそれぞれの主体にとってみれば、そこに「現実に」存在しているのは、その主体が主観的に作り上げた世界なのであり、客観的な「環境」ではないのである。

ユクスキュル/クリサート,『生物から見た世界』,岩波書店,2005年

ここでは、自分の周りにある環境という物理的に存在している世界をそっくりそのまま認識しているのではない。我々が認識している世界は、我々個人が作り上げた主観的な世界だと述べられているのだ。

これら2つの本を改めて見比べると、世界と言葉には強い関係があることがわかってくる。

先ほどの引用文でも示した通り、言葉は抽象概念を切り分けるために作られた。

無限が存在する環境を人類が把握するために言葉を用い、世界を認識している。

つまり、目の前にある客観的な事実として世界を認識しているのではなく、人類が把握しえない客観的な環境を把握するために言葉をつくり、自分が知っている言葉を基に世界を創り上げているのである。

第一章 世界は言葉でできている

まず、1つ質問です。

下の写真の虹は、何色ですか?

自分の写真フォルダにあった唯一の虹

貴方が日本人であれば、この質問には、「七色の虹」という言葉から7色と答えていると思う。ちなみに、アメリカ人やイギリス人は6色と答え、中国人やメキシコ人は5色と答えるらしい。

次は物理学的な視点から虹を考えると、虹という現象は、空気中の水蒸気に太陽光がぶつかり光が分解すること(スペクトル分解)によって生じる現象であり、その光の分解に一定の規則があるから、虹のように色が平行に並んでいるように見える。ただ、色と色の間には明確な境界はなく、グラデーションのように徐々に色が変わっている。

この視点から考えたとき、虹は名前がある色から名前のない色まで含め、無限の種類の色からなることになる。

最後に、僕が写真を見たときの率直な意見としては、4色くらいに見えた。

そして、このどれもが、言葉で世界ができていることを示している。

一つ目の7色の虹についてだが、これは最も分かりやすい。文化的に伝えられる言葉「7色の虹」という言葉によって、目に映る虹を7色と認識しているのだ。

二つ目の無限色の虹については、もちろん客観的な環境を記述していると言えるが、そんな風に実際に観測している人はおらず、“無限色の虹”と言葉で解釈して、そのように認識したつもりになっているだけだ。

三つ目の四色の虹は、これも客観的な事実からなる世界を認識しているように思えるが、結局は、人間が環境を認識しやすく定義し、切り分けられた“色”という概念によって、4色と認識している。これがもし、青と黄の間の色(緑)に名前がなかったとしたら、きっと3色と認識しているだろう。

こんな風に考えると、多くの言葉に触れる意味がい見えてくる(言葉は、知識や語彙と言ってしまった方がわかりやすいかもしれない)。

第二章 言葉を知れば、世界が変わる

言葉を知っていると、見える世界が広がり、深まる。

例えば、感情を表す言葉を「やばい」しか知っていなかった場合、全ての感情の動きが「やばい」で終わってしまう。本当は目の前に何があり、そこから生じた多様な感動があるはずなのだが、それを自覚できない。

香川県の天空の鳥居

或いは、道端に咲いている花の名前を知っている場合と知らない場合にも大きな違いがあるだろう。

知らない名前の花が咲いていた時、それはただの花で、綺麗とか可愛いとかそんな感想しかでてこない。逆にその花の名前や特徴にある程度の知識を持っていると、その花をより詳しく認識することができ、より大きな感動を受け取ったり、好奇心を掻き立てられたりすることができるかもしれない。

なばなの里の花(名前は知りません)


こんな風に、言葉を知っていると、世界の見え方、感じ方が大きく変わってくる。

多くの言葉を知る意味、延いては、【本を読む意味】はここにある。

第三章 言葉で読んだものも世界になる

今まで話していることは、目に映る世界の話だったが、それだけではない。

言葉で読んだものも一つの世界となりうる。

一般的に疑似体験と呼ばれるものだ。

僕が思うに実際に経験した出来事と小説で読んだ物語との間には、ほとんど差はない。いくら自分の身に降りかかった出来事であっても、過去のことであれば、それは脳に記憶されたものとなり、思い出すときにも言葉によってその過去の世界を創り上げる。

それに対して、小説を読んでいる間は、もちろん実際に経験していることとその詳細度が大きく変わる。ただ、ひとたび小説の内容を脳に記憶としてアーカイブすると、それは一つの過去の出来事となり、実際に経験して記憶していることとの差が弱まってくる。要するに実際に体験したような感覚を得られる。

例えば、飛行機事故に関連する小説を読んだ後、実際には経験していないはずなのに、飛行機に乗り、少し揺れを感じたりしたら、必要以上に冷や汗をことがある。

或いは、山村の民家が猟奇的殺人犯により、無惨な殺害が起こる小説を読んだ後、これも実際には経験していないはずなのに、山村の民家に訪れた時や普通に家にいる時に、なんとなく怖くなってしまうこととかがある。

これらも小説で読んだ物語が自分の身に降りかかった実際の出来事のように記憶された結果であり、その世界とその世界で湧き起こった感情が呼び起こされていると言える(例が悪いことばかりだが、もちろん感動とか歓喜とかそういう良いことにも同じことが起こる)。

以上のように考えると、現実世界では、体験できないような体験を言葉の世界でリアルに体験できることも【本を読む意味】と言える。

おわりに

ここまで、言葉から【本を読む意味】を考えてきた。

そして、この話の結論は、

・見える世界を広げ、深めること
・体験する世界を増やすこと

という二つになった。

これをもっとコンパクトにまとめると「人生をより楽しくしてくれること」が【本を読む意味】だと思う。

最後に少し話は変わるが、僕が、もう一冊、言語についての印象的な本として、ルソーの『言語起源論』という本についてお話ししたい。

こちらも岩波文庫で、多少難しい本ではあるが、気になる方にはぜひ読んでみてほしい。

本書を簡単に説明すると、我々が扱う言語についての考察であり、その主張は、

人はまず考えたのではなく、まず感じたのだ。(中略)
最初の諸言語は簡潔で方法的なものではなく、歌うような情熱的なものとなったのである。

ルソー,『言語起源論』,岩波書店,2016年

というものだ。

まあ、これだけ聞いても当然よくわからないと思うが、簡単にまとめると、言語は論理を説明するために生まれたものではなく、感情を表現するために生まれたものであるということが書かれている。そして、その意味では、音楽の旋律と同じ起源と考察している。

これは僕がはじめにの中で紹介している本の「言葉の起源」を完全に否定している。

言語の起源に関して、はじめにの本は客観的な環境を切り分けて世界を説明することと示しており、本書は情念の表現と示している。ただ、結局はどちらも言葉の役割であることに違いはなく、自己の認識する世界を広げるためにも言葉を知ることは必要で、自己の感情を自覚するためにも言葉を知ることは必要なんだと思う。

また、ここまで書いてきたのは、そのほとんどが【言葉を知る意味】だと言えてしまう。

しかし、【本を読む意味】には【言葉を知る意味】が含まれている。本ほど、言葉の密度が詰まった媒体は少ない。そして、一つ一つの言葉を思索されたものも少ない。

だから、本を読む最大のメリットは、高密度の正しい言葉に出会えるということが根本にあり、その先にここまでに述べてきた「人生を楽しむ」という【言葉を知る意味】を含んだ【本を読む意味】がある。

感想(雑談)

という感じで、【本を読む意味】を考えてみました。ちょっとありきたりなものは避けたいというあまのじゃくな性格が出てしまい、少し違うアプローチ方法で考えてみました。(笑)

ただ、結論は、考え始める前に思っていた以上にありきたりな感じになってしまったので、結論はしっくりくるものの、我ながらちょっと残念です…

あと、エッセイ的に自分が経験したことや本で読んだこと、人から聞いた話をもとに、試行錯誤しながら、よくあるテーマについて新しい視点から考えるのは楽しい時間でした。

皆様もいつもとはちょっと違う視点で【本を読む意味】を考えて、シェアしていただけると嬉しいです!

これからも月に1~2くらいでこういうnoteをだしていきます♪

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