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梨と芦川さんと私(第167回芥川龍之介賞受賞作「おいしいご飯が食べられますように」を読んで)

先日、「しんやさん、去年note始めたけど、あっさり更新しなくなったね」と言われました。人は図星のことを言われると腹が立つし、何も言い返せないものです。が、書いていないことも事実なので久しぶりにきちんと書いてみたいと思います。

先日、以下のような記事を書きました。

数日後に出た結果は、既報のとおり、高瀬隼子さんの「おいしいごはんが食べられますように」でした。おめでとうございます。そして、私の予想は派手に外してしまいました。私にとって、小説の出来というのは世相とか時代性、普遍性といったところに偏っており、もっと素直に「面白かった!」とか「読書会やってみたい!(その後実際にやりました)」といったプリミティブな感覚を優先した方が的中するのかもしれません。あんまり世相世相といっていると、山田詠美先生から怒られちゃうぞ!(選評を読んだ人向けネタ)

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今年の4月に千葉県に引っ越した。梨の栽培が盛んな地域で、8月になるとそれまで閉まっていた直売所が雨後の筍のごとくオープンする。その時期に、知り合いからもらった当日朝に収穫した梨(幸水)を食べて感動した。好きな果物を3つあげよ、と聞かれれば梨は必ず入る私だが、これまで私が食べてきた梨とは違う。水分たっぷりで甘味が強い。梨とはこんなにもみずみずしいものだったのか。調べてみたところ、品種によるが昔ながらの幸水は特に梨はあまり日持ちしないし、洋ナシのように追熟させる必要がない。今まで食べてきた梨はスーパーで買ったものなので、どうしても収穫してから流通している間にみずみずしさが抜けてしまうので、これまでこの味に出会っていなかったのはしょうがないといえばしょうがない。

梨のおいしさに感動した私は、自分で食べるためには足しげく直売所に通った。さらに、誰にも頼まれていないが、東京に行く際には駅近くの直売所に寄ってその日の朝に収穫した梨を友人に配るという活動を開始した。もちろん無償である。埼玉に住む甥っ子のところにも高速に乗って持って行った。一緒に食べれば「美味しい!」とその場でいってくれたし、その場で食べない場合でも後に感想を伝えてくれたので、私もわざわざ持参した甲斐があったと思ってとても満足した。なんだったらあげた後に「家で食べる」と言っていた友人からその後その件に対してなんの音沙汰もないことに対して少し腹をたてている。

10月を迎え、梨の収穫も終わるので直売所も閉まった。この地域では直売所が閉まると秋の到来を実感する人も多いのだろうか。当然私の梨配り活動も終わった。

この梨配り活動とはなんだったのだろうか。それは自分の感動体験を共有したいということなのだと思う。いくら字面で美味しい、甘い、品種によっては酸味が強めで甘さが際立つ、みずみずしい、ジューシー、と言ってもおいしさの感動が伝わらない。おいしさを実感してもらうにはどうしたって食べでもらうしかない。

この「感動体験を共有したい」というのは、「おいしいごはんを食べられますように」における芦川さんメンタリティと共通している。わざわざ自腹を切って、それなりに重量のする梨をせっせと東京に運ぶという美しき自己犠牲。友人の「美味しい!」という感想にたいして「でしょ~!」と(自分で栽培したわけでもないのに)言いたい。ドヤ顔で。

芦川さんはか弱く愛される存在。どんなに忙しい職場でも、空気を読まずに帰る一方、翌日に手の込んだお菓子を作ってくる。じゃあ、帰るんじゃねぇよ。しかも手作りかよ。オフィスに手作りのお菓子を持ってこられても、私は割と食べたくない方だとは思う。が、食に対する姿勢だけは割と一致するのだ。

「食べるのが好き・・・・・・っていうか、どうなんでしょう。よりきちんと生きるのが、好きなのかもしれないです。食べるとか寝るとか、好きか嫌いか以前に必須じゃないですか。生きるのに必須のことって、好き嫌いの外にあるように思うから」

高瀬隼子「おいしいご飯がたべられますように」

分かりますよ。食べることは生きるのに必須なんだよねぇ。食生活が乱れると、人生が乱れているように感じちゃうよね。必須であればこそ、おいしいごはんを食べることは絶対的に正義。みんなにもおいしいごはんを食べてほしい。おいしさの共有という絶対的正義に名の下、芦川さんはお菓子を作って職場で配り、私は梨を買って友人達に配りまくる。この点において、手作りかどうかというのはあまり大きな差異ではないのかもしれない。といっても私は体調不良で職場に迷惑をかけることに対して、少しは思いを致す方だし、少なくとも他人が口をつけたペットボトルからお茶を飲むことは絶対にない。けれども、食に対するメンタリティという点では、私の中に芦川さんは確かにいるのだ。

でも、ふと思う。小説の中に登場する二谷のように、食にこだわる姿勢を蛇蝎のごとく嫌う人間がいるのと同じように、実は梨が嫌いな人や、梨アレルギーを持っている人もいるかもしれない。そういった人に自分はニッコニコで「これ、美味しいから!今朝収穫したやつだから!」といえば、相手は喜ぶしかない。そんな人間に対して、「私、梨嫌いです。」とか「いや、梨アレルギーなんで無理」とかなかなか言えないわけで、そこに私の配慮がなかった、という誹りは免れないのかもしれない。おいしさという主観がによる絶対的正義という棍棒を私はこの2カ月ぶんぶんと振り回していたのかもしれない、と思うと少しだけ二谷の気持ちもわかるのであった。

ということで今回はここまでです。お読みいただいた方、ありがとうございました。あと、平松愛理の「部屋とYシャツと私」って、今発表されてたら、フェミニストの方は噴きあがりそうだね。


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