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今の時代、人間がどうあるべきか

背景

ある日、友人Aが「人間はもっと考えるべきだ」と言った

17世紀フランスの哲学者パスカルは「人間は考える葦である」と唱え、人間という弱者が強者たりうるためには思考が必要であることを訴えた

その友人Aは、これに近い思想であることと共に主張をしていた

なぜこの考えに至ったのか、経緯について聞いてみたところ、

まず、友人Aと友人Bとの議論の間で、友人Bが"自分の常識を否定されて怒る"ということが起きたらしい。想定外の事象に戸惑った友人Aは、これを考えが足りないことが原因だと考えたみたいだ

私も実は"自分の常識を否定されて怒る"という人に会ったことがある

彼らが何を思って常識に囚われているのか、自分の常識を疑わないのか。その時は結論が出ず、曖昧なままにしていたので友人Aとの議論は結論を出すための良いきっかけになったと思う

本題

友人Aは、「人間はもっと考えるべきだ」と唱えたがもっと具体的に表現し直してみる。

友人Aが遭遇した場面で、友人Bに求められたものは、常識 = 偏見の知見だ
常識を否定されたとき、一度その言葉を反芻し、自分なりの回答を交えることで、もっと良い議論になったことは自明だ

つまり、その反芻する過程で必要になる知見が、常識 = 偏見である

相対性理論で有名な物理学者アルベルト・アインシュタインの言葉に「常識とは 18 歳までに身につけた偏見のコレクションでしかない。」というものがある

つまり、常識は偏見の塊であり、最初から偏見であることを認めていれば誰かに否定されたとて、怒るほどのことでもなかったはずだ



私は、「人間はもっと考えるべきだ」という言葉に無理があると思っている

なぜなら、これまでの世界の歴史から言って、鎖国や異民族差別、黒人差別、宗教間戦争、経済摩擦など「考える」ことができていれば避けられた事象を人間は避けていないからだ

第二次アフリカ大戦では、天然資源の奪い合いによって560万人以上の死者を出した。オーストラリア南部にあるタスマニア島で起きた黒い戦争では、原住民がヨーロッパ人によって絶滅させられた。近年のSDGsでは、EVを走らせるために、電気を生産する設備で環境破壊を進めている。コロナ蔓延のきっかけとなった中国は、WHOに最も献金をしていることから直接責められることはなく、日本の海産物を福島の汚染物質として輸入規制するなど、権力を振り撒いている。

このように、歴史的に見ても人間は考える時間はいくらでもあったのに、避けるべき事象を避けていない。理由は何か。

理由は、利益の追求、衝動的快楽だ
これらは考えた上で行われている。もっと考えたとしても変わることはない

友人Bは、自分の常識を否定されたから怒ったわけではない
友人Aを見下していたから怒ったのだ。見下している相手に自分の洗練された思考を否定され、お前は俺の素晴らしいお話を黙って聞いていればいいんだという思考で怒ったのだ。

このような差別的思考も一種の衝動的快楽だろう

結論

これまで述べたことをまとめると
1. 常識を偏見の塊であることを認めることで、反芻思考が可能になる
2. 「人間はもっと考えるべきだ」という主張には無理がある
3. 常識を否定されて怒るのは、否定した本人を見下しているからである

ちなみに
1も2も条件を満たしていない人は、鵜呑みにするか無視するかしかしない
自分と同等以上の人からの否定意見には対立できないからである

もし対話相手の常識を偏見であると指摘した際に怒られたとき、あなたはその相手に見下されていると考えた方がいい

余談

結論までで、「人間はもっと考えるべきだ」という考えを筆者は否定した
では、筆者はどう考えるのか

私は「人間はもっと自由であるべきだ」と主張する

私のこの思考すらももっと自由であっていい。人間に対して"べき"だなんて言葉も死語だ。今の世の中に足りないものは自由だ。先駆者のレールは既に錆びている。

常識に囚われた人から朽ちていく。常識は腐ったみかんだ。腐敗は感染る。
常識を塗り固めていくほど自由が狭まり、孤立化する

しかし、これは自由に思考すべきだと言っているのであって、自由に過ごしていいとは言っていない。何を言いたいのかというと、自堕落に動物のように生きることを自由としていないということだ

そして、これは決して多様性というものではない
多様性というのは自由でない人も含まれているからだ

思考に囚われない、常識に囚われない、歴史に囚われない、想像を豊かに創造することで世の中を豊かにしていく

今後、人間がもっと自由を手にすることができれば、友人Aの悩みも解決されるのではないだろうか


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