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目は読むには向いていない話

文章はその性質上、普遍主義、主知主義、理性主義であることは書いた。そのため現実には人それぞれ充実していても、文章にしたときにはそのいい部分が削ぎ落とされてしまう。話し言葉ならまだいい。というのも語調とか人となりが見える場面で話すからだ。つまり文章はプライベートを表すのに向いていない。

では日記はどうなるのか。確かにだいぶプライベートだ。しかしどうだろう。技術を持たない人の日記はありきたりでいつも同じことの繰り返しになってしまうのではないか。日々の違いを書くとなると、その前の日を正確に理解していなくてはいけない。覚えているのではなくだ。確かに昨日と今日は違うのだが、それを理解していなくてはいけない。何がどう違うのかを説明できなくてはいけない。これはなかなか難しいことだ。

要するに、文章は誰でも書けるものではなく、選ばれた人が使える技ということになる。話し言葉もそういうところがあるが、話し言葉はより幅広いものを許容してくれる。しかし文章は違いを許さない。少しでも読みづらい文章は破棄される。

削ぎ落とされたいい部分はどこへ行くのだろうか。それは体に宿っている。それは広い意味での記憶と呼ばれる。昨日私が座りたかったベンチに座っていたカップルは楽しそうにどこかに行ったことを記憶している。また、私は職場への行き方を記憶している。切符の使い方も…。してみると一番おもしろいのはその人自身であるということになる。文章などはカスに過ぎないのだ。

もし用事があるのならばそちらを優先されたい。文章は大抵の人にとってはちょっとした暇つぶしだ。現実に起こっていることの方がずっと価値があるし、馴染みやすい。文章に疲れたら顔を上げて遠くを見るといい。そこには際限なく景色が広がっていることだろう。つながりはすばらしい。それを理解しなければならない。目の前のビルは決していきなりできたわけではない。広がる空は海とつながっていないわけではない。それがわかってから文章に当たるといい。読むことも書くことも誰にでもできることではない。

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