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秒速5センチメートルに救いは無かった

中学2年生のころ付き合っていた彼女に秒速5センチメートルのDVDを借りた。これだけでも拗らせの原因としては完璧なのだが、極めつけなのはお互いにこの作品の良さがまったく分からなかったということである。

物語の大筋としてはヒロイン明里の小学校に主人公の貴樹が転校、共通点の多い二人は互いに惹かれ合う。しかし両親の転勤により明里は栃木、貴樹は鹿児島(しかも種子島)に転校、少しずつ音信不通になっていく…という話
しかしこの作品が世の男たちの感傷を抉る理由はラストにある。社会人になった貴樹は明里のことを忘れられずどこかで喪失感を抱えており、会社も辞めてしまう始末。反して明里は高校進学時点で貴樹のことをきっぱり忘れており、婚約者まで決まっていた。
そしてラストシーン、大人になった貴樹と明里は踏切ですれ違うも運悪く小田急が二人を遮る。貴樹は車両のむこうに明里がいるのを期待するが電車が去った後に明里の姿はなかった____


世のNTR嫌いが発狂してしまいそうなこのストーリーであるが、当時の僕にはこのラストがなんの当たり障りも無いものに思えた。

そして彼女とは中3の時に別れ、高校生になって新海誠沼に浸かった僕は秒速5センチメートルを再視聴して途方もない感傷に浸ることになる。これを一緒に見た彼女は今どうしているのだろうか、自分のことを少しでも覚えてくれているだろうか、そんなことを毎日のように考えるようになった。

高校2年生に進学してからは新しく好きな人が出来たものの当時の僕には学生の恋愛の軸が秒速5センチメートルを軸に出来上がってしまっており、寝る前に好きな人が幸せな家庭を築き子供と公園で遊んでいるところに出くわす絶望的な妄想を毎日のようにしていた。

まあこの人のことは今でも好き(ほぼ連絡とってない)なのだが、当時から僕は「この人と結婚するか一生独身を貫くか」みたいなことを本気で考えている。

そんな時、僕は大阪大学鑑賞マゾ研究会というサークル?に出会った。


一人旅が好き→一人旅のインカレを探す→阪大一人旅サークル→当サークル

という流れだったのだが見つけたときの感動はすさまじいものだった。こんなにも自分の感情を言語化してくれる団体があるのか…と。

マゾ研の虜になった僕は文フリに行ったり会誌を全巻買ったりなどするのですがまあそれは置いといて、こうして鑑賞マゾに触れ続け、ふとなぜ男という生き物はこうも過去に縛られるのか疑問で仕方がなくなった。こんなにダメな自分を好きでいてくれていたという自己肯定感の低さによるものなのか、単に男性の脳の特性的な何かなのか。おそらくはどちらも正しいのだが、僕が最近考えているのは、男特有のプライドの高さから来るものなのではないかというものである。

上京するとき狂ったように聞いていた二十九、三十


貴樹は自分がかつて持っている明里への情熱が失われていることに気づいたとき、絶望して会社を辞めた。私がかつて好きな人が別の男と素敵な家庭を築いている妄想をしてしまっていたのも、二十九、三十が毎日同じ会社に通っている男の心情を痛いほどに描いているのもそう。男というのは女性以上にプライドの高い生き物なのだ。だからこそかつて好きだったひとが自分以外の男と幸せになることを許せない。元カノとの思い出を脳内で徹底的に美化してしまう。かつて自分が抱いていた情熱を忘れ、つまらないサラリーマンになっている自分に違和感を抱いてる人も多いだろう。(学生なので知ったことではないですが)

こういった男特有の、男らしくあろうというプライドの高さが逆に過去に粘着する女々しさを演出してしまうのだから何とも可笑しい話だ

ちなみに僕が秒速の魅力を引き立てていると思うのは、2人が中学生の頃、栃木の駅で寒い中何時間も貴樹を待ち続けた明里がラストでは1秒たりとも貴樹を待つことは無いという対比。この清々しさを演出しておきながら「大勢の人に前を向いて歩いて欲しいと思い制作した」と言う新海監督の無自覚に人の心を揺さぶる力には脱帽である。僕の魂が救われる日は来るのだろうか。





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