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雑感『イノセンス』

Waking or asleep,
Thou of death must deem
Things more true and deep
Than we mortals dream,
Or how could thy notes flow in such a crystal stream?

めざめても 眠っていても
おまえは 死について
わたしら人間が夢みるよりも 真実な深いものを
考えているにちがいない
さもなければ どうして こんな清澄なうた声が流れようか

"To a Skylark" By Percy Bysshe Shelley(和訳は上田和夫訳『シェリー詩集』(新潮文庫)より抜粋。) 

   

前作「GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊」の世界観を踏襲した本作では、「電脳」を介した外部記憶へのアクセスが随時可能とされている。結果、作中にさまざまな文学作品、哲学書、聖書、ブッダの言葉、論語などの引用があふれかえることになる。上記のシェリーの詩もその例に漏れず、物語後半、キムというハッカーによって言及される。

キム:”シェリーのひばり”は、我々のように自己意識の強い生物が決して感じることのできない、深い無意識の喜びに満ちている。認識の木の実をむさぼった者の末裔にとっては、神になるより困難な話だ。

キムとの接触に成功したバトーとパートナーのトグサは、このとき、生と死、人間と人形、神、動物といった諸存在についての問答に巻き込まれている。

キムが言う「認識の木の実をむさぼった者の末裔」が、エデンの園で知恵の実を食べたアダムとエヴァの子孫を指すことは明らかだ。
人間は「認識の木の実」を食べたが、その認識能力は神には到底およばない。であれば、いっそ中途半端な認識能力など持たないほうがよいではないか。キムはそう主張する。

キム:人間はその姿や動きの優美さに、いや、存在においても人形にかなわない。人間の認識能力の不完全さは、その現実の不完全さをもたらしーー。そしてその種の完全さは、意識を持たないか、無限の意識を備えるか、つまり人形あるいは神においてしか実現しない。(中略)いや、人形や神に匹敵する存在がもうひとつだけーー。

バトー:動物か……。

動物、つまり「シェリーのひばり」(詩中の「おまえ」)は、(自己)意識など持たない。だから彼らは「その種の完全さ」を実現している。結果、彼らの生きる現実には完全さがもたらされる。目覚めていても眠っていても、死について「真実な深いものを」考えている。
対して、「死」という現象を意識してしまう人間は、逆説的に死を理解することはできない。

バトー:”寝(い)ぬるに尸(し)せず”ってな。死体のように寝ちゃならねえと、孔子様もおっしゃってる。

「寝ぬるに尸せず」は、孔子の『論語』からの引用である。「寝ているときも死体のように手足を伸ばしてあお向けになってはいけない」の意で、たとえ眠っているときであっても、だらしなくしてはいけないとの戒めだ。
全身義体のキムは、「シェリーのひばり」が到達する「真実な深いもの」に惹かれている。意識を持たない人形、あるいは動物の「深い無意識の喜び」にひたるため、死んだふりをしている。バトーは孔子の言葉を引用して、キムのその態度を非難しているのだ。

ここで、神、人間、人形、動物の相関関係を見てみよう。

                認識能力           ゴースト
  神
             完全               なし(?)
人間        中途半端              あり
人形   なし          なし
動物   なし                  なし

キムの言うように、人間だけが自らの半端な認識能力に苦しむ。そしてその苦しみは、ゴーストの有無と相関関係がある。ゴーストを持つものは、その認識能力の不確かさゆえ、「死」を理解できない。

キム:”未(いま)だ生を知らず、焉(いずく)んぞ死を知らんや”と孔子様も言ってるぜ。死を理解する人間はまれだ。

キムもまたバトーに対し『論語』を引く。自らがゴーストを持つ人間であるかぎり、死を理解することはできない。だから認識能力のない人形になることを目指す。しかし人間であるかぎりは、その物理的終焉たる死を迎えないかぎり、半端な認識能力を捨て去ることはできない。そして、死んでしまえば認識能力を失い、死を理解することもできない。ここに大きなジレンマが生じる。

そもそもバトーとトグサがキムの元を訪れたのは、ロクス・ソルス社というロボットメーカーが生産したロボット(ガイノイド)の暴走・殺傷事件を追ってのことだった。
事件解明にバトーら公安9課が乗り出したとき、訴追を恐れたロクス・ソルス社は電子戦のエキスパートであるキムに依頼し、バトーの電脳にハッキングをかける。辛くも窮地を逃れたバトーは元来、諜報戦のプロであり、生半可な相手に遅れをとることはない。まして草薙が「失踪扱い」となっている現況では、そんな離れ業ができる特Aクラスハッカーはめったにいるものではない。バトーはキムに白羽の矢を立て、直接、本拠地に踏み込んだのであった。

ここで、暴走を起こしたロクス・ソルス社製ロボット(ガイノイド)、タイプ2052「ハダリ」について見ていこう。
「ハダリ」は完全な人型をしており電脳も装備しているが、本来、ゴーストは有していない(劇中ではしばしば「人形」と称される)。しかし暴走事件を起こした「ハダリ」の電脳には、生身の少女たちのゴーストが「転写」されていたことが結末近くに明らかになる。
ゴーストを転写する「ゴーストダビング」は、複製元の人間の脳が破壊されるため禁止されている技術だ。「ゴーストダビング」を行うと、生身の少女たちの魂(ゴースト)はロボット(「ハダリ」。ガイノイド、ロボット、人形)に「ダビング(劣化複製)」される。一方で、少女たちの脳は破壊され、ゴーストが消える。

○ゴーストダビング後の人間とロボット
         ゴースト         
   人間       
あり→なし         
ロボット  なし→あり       

ゴーストは人間(少女)からロボット(人形)へコピーされるが、オリジナルは失われる。ということは、ゴーストは人間からロボットに移ると解釈できる。一方、人の「記憶」は人格を支える大きなバックグラウンドであるが、これは人形に引き継がれない。なので、オリジナルとコピーは別の存在ということになる。

こうして見てくると、「ゴーストダビング」は、人間を人形に、人形を人間にする技術であることがわかる。キムが焦がれている「深い無意識の喜び」を得ることは、ゴーストの移譲によって実現する。生きながらにして魂を失うことで、人形や動物に近づくことができるというわけだ。だが、キムはそれを「無粋な話だ」と両断する。

キム:人形に魂を吹き込んで人間を模造しようなんてやつの気が知れんよ。真に美しい人形があるとすれば、それは魂を持たない生身のことだ。

たしかに魂を失った少女は人形になれる。だが、同時にロボットは魂を得て人間になってしまう。このままでは「いってこい」の関係のままだ。だからキムはひとりで「死んだふり」を続ける(実際にはキムはバトーに「ゴースト・パック」され、ロクス・ソルス社のシステム侵入に利用され、攻性防壁で脳を焼かれて死ぬ)。

ガイノイドの暴走事件は、「人形になりたくな」かった少女たちが、ロクス・ソルス社の出荷検査官と共謀して起こしたことが終盤近くで明らかになる。検査官は出荷されるガイノイドに細工を施し、人間を襲うように仕向けた。ガイノイドによる殺傷事件が起これば、ロクス・ソルス社に警察の捜査がおよび、少女たちは解放されると考えたからだ。

細工を施されたガイノイドは、上述のように少女たちのゴーストを有している。ロクス・ソルス社がなぜ違法であるゴーストダビングをしてまでこのような存在をつくったかというと、件のガイノイドはセクサロイドであったからだ。そのボディーには性行為を行うための「不要の器官」を与えられるのみならず、生身の少女のゴーストを移植されることで「人間らしさ」を持たされていた。
きわめて悪趣味であるとはいえ、ロボットであるかぎりセクサロイドは合法で、倫理的にも問題はない。現にアイザック・アシモフによる「ロボット工学三原則」は、この時代においても「倫理コード」として有効である。すなわち、

第一原則 ロボットは人間に危害を加えてはならない
第二原則 第一原則に反しないかぎり、人間の命令に従わなくてはならない
第三原則 第一、第二原則に反しないかぎり、自身を守らなければならない

出荷検査官によって細工されたガイノイドは、自ら故障することで人間に危害を加える許可を得る。その論理的帰結として第三原則からも解放される。つまり、自壊(自殺)することができるようになる。実際、事件を起こしたガイノイドは人間を襲ったのち、自壊(自殺)を選んでいる。

ここで忘れてはならないのは、このガイノイドたちは「ゴースト」を有した「人間」であったことだ。出荷検査官はそのことにおそらく自覚的だったろう。この検査官は暴力団に殺害されるが、検死結果からアルコール依存症であったことが判明する。事件を起こすことで生じる社会的影響、生身の少女たちを救うという使命感、自身の生命の危険。それに加えて、「ロボット」を自殺させることに対しての倫理的責任が重くのしかかっていたのかもしれない。

ロクス・ソルス社のプラント船で、バトーは騒ぎの首謀者の少女を救出する。この少女はゴーストダビングの途上で、まだゴーストを有している。彼女らは「人形になりたくなかった」のであった。バトーはそれを人間の身勝手さと受け取る。

バトー:犠牲者が出ることは考えなかったのか? 人間のことじゃねえ。魂を吹き込まれた人形がどうなるかは考えなかったのか!

魂(ゴースト)に人間存在とその尊厳を求めるかぎり、「魂を吹き込まれた人形」は同列に扱われるべきだ。自身もその肉体のほとんどを義体化しているバトーにとって、被害者の人間よりも、ゴーストをダビングされたガイノイドのほうが近い存在なのかもしれない。

本稿冒頭の「ひばりに寄せて」は、19世紀ロマン派の詩人・パーシー・シェリーによるものである。このパーシー・シェリーの二番目の妻がメアリー・シェリー、かの『フランケンシュタイン』の作者である。

「人造人間もの」のはしりとも言える『フランケンシュタイン』は、直接の言及はないものの、本作「イノセンス」に深い影響を与えていることは確かだろう。

わたしに言わせれば、生と死の境界は観念的なものに過ぎず、まずはそいつを突破してわれわれの暗黒の世界に光の奔流を呼び込まねば、と考えました。

(メアリー・シェリー著、芹澤恵訳『フランケンシュタイン』新潮文庫 p102)

若き科学者・ヴィクター・フランケンシュタイン(「わたし」)の言う「生と死の境界」のあいまいさは、人間と人形の境界のそれとにかなり近いのではないだろうか。

上記引用にはさらに次の一文が続く。

わたしの手で新たに生を受けた種は、わたしのことを造物主と讃(たた)え、やがて幸福にして優れた者たちがわたしのおかげであまたこの世に出現することになるのだ、と。

(メアリー・シェリー著、芹澤恵訳『フランケンシュタイン』新潮文庫 p102-103)

「怪物」を生み出す前のヴィクターは、創造主にふさわしい栄光の予感に満ちている。しかし、素材の多くを「解剖室や食肉処理場から得た」という肉体に生命が宿った瞬間、誉れは嫌悪と恐怖へと一変する。

その瞬間ーーそのとんでもない大失敗を目の当たりにした瞬間、こみあげてきた感情をどう言い表したものか……。これまで、文字どおり苦しみもがきながら、苦労に苦労を重ねてきた結果、こうして生まれたこのおぞましい生き物を、どう説明したものか……。わたしとしては、四肢は均整が取れた状態に、容貌も美しく造ってきたつもりです。そう、美しくです! その結果がーーなんと、これか?

(メアリー・シェリー著、芹澤恵訳『フランケンシュタイン』新潮文庫 p109-110)

美しく造ってきたはずなのに、なぜ「おぞましい生き物」になってしまったのか。そう、生命が宿る前に有していた「人形」の美しさを、生命が宿ってしまった瞬間に失ってしまったからである。フランケンシュタインの「怪物」はゴーストを有してしまった。つまり、「怪物」とは人間であり、「怪物」の醜悪さは人間のそれなのだ。

前作『GHOST〜』で人形使いと融合し「失踪」していた草薙は、ロクス・ソルス社の悪事を暴くため、再びバトーと共闘する。
ここでひとつ疑問が生じる。9課を抜けた草薙は、なぜ9課と同様の犯罪捜査をしているのか。

草薙:バトー、忘れないで。あなたがネットにアクセスするとき、私は必ずあなたのそばにいる。

物語の結末で、草薙はバトーに上記のように告げる。
たしかに劇中で草薙は「守護天使」のようにバトーの危機を救っている(食料品店での「キル・ゾーンに踏み込んるわよ」の声。キムの屋敷での「aemaeth」「maeth」のサイン)。しかしそれは、草薙がバトーの先回りをしてキムにハッキングをしかけていたからだ。

キム:俺の組んだ防壁を突破して進入しただと? バカな。そんなまねができるやつがーー。

バトー:だから言ったろう。守護天使だって。

草薙はバトーの捜査に初めから付き添っている。結果、バトーの「守護天使」として振る舞うことになる。

バトー:9課の存在意義を問われる。あいつ(草薙)がいればそう言ったに違いねえ。

前作を振り返ると、自身の生身の脳を含めたすべてのリソースが「仕事」に使われている現況から、草薙は脱したはずだった。にもかかわらず、本作でも草薙は同じような「仕事」をしている。なぜなら彼女の「ゴースト」はささやき続けているからだ。
一方で「人形使い」との融合後の草薙に関しては情報が少なく、彼女本来の「ゴースト」の所持には疑問符をつけざるをえない。

○草薙の融合前後の比較
                           認識能力      ゴースト  記憶
草薙(融合前)  中途半端     あり(?)  あり(?)
草薙(融合後)   完全         あり(?)  あり(?)

人形使いとの融合前の草薙は、一種のアイデンティティー・クライシスに直面していた。

草薙:もしかしたら自分はとっくの昔に死んじゃってて、いまの自分は電脳と義体で構成された模擬人格なんじゃないか。いや、そもそも初めから、私なんてものは存在しなかったんじゃないかって。

このように漏らす草薙に、バトーは「くだらねえ」と吐き捨てている。さらに、こうも付け加えていた。電脳と義体が本当に人格を生み出すのか、自分のゴーストで確かめる、と。つまり、バトーは自分の「ゴーストのささやき」しか信じない「唯ゴースト論者」であることが示されている。
一方で草薙は、自らの存在を支える「ゴースト」「記憶」自体が人工物ではないかという疑いから脱せないでいた。信じ続けてきた「ゴーストのささやき」があやふやなものであったとしたら……。バトーの「くだらねえ」はだから、草薙同様に全身義体のサイボーグである自身への鼓舞でもある。
つまり、上図の融合前の草薙と同じ状態を、本作のバトーは生き続けいていることになる。そして、本作終盤、ついにバトーは「均一なるマトリクスの裂け目の向こう」へ行ってしまった草薙と邂逅する。

バトー:”聖霊は現れたまえり”。ひさしぶりだな、少佐。今は何と呼ぶべきかな?

草薙:正確には衛星経由で私の一部がロードされてるだけよ。このガイノイドの電脳は容量が不足ね。戦闘用の義体制御システムだけでいっぱい。表情と声はこの程度で勘弁して。

草薙は暴走を始めたガイノイドに「憑依」するかたちで地上に現れる。このとき、たしかにかつての「少佐」としてバトーと対話する。
この会話の前、バトーを襲っていたガイノイドの中の1体が、突如仲間を攻撃し始める。バトーの銃を奪い、的確に敵を沈めていく。「二人」は連携して敵を一掃したのち、銃を向け合う。そして上記「聖霊は〜」のセリフにつながる。

バトーはガイノイドの戦い方で、彼女が草薙であることを理解している。それはたしかに「戦闘用の義体制御システム」によるものなのかもしれない。しかし、長くバディーを組んでいた彼女の戦い方は、彼女自身の表象となる。

草薙:人間が人間であるための部品がけっして少なくないように、自分が自分であるためには、驚くほど多くのものが必要なの。

かつて草薙は自身を構成する要素として、「声」「手(体)」「記憶(過去)」「予感(未来)」を挙げていた。バトーとともに戦っていた過去は、当然、学習型AIのように「戦闘用義体制御システム」に反映されている。そして、前作のラストで草薙が再び獲得した「声」も、制限がありつつつも、ここで再々獲得されている。
一方で、ガイノイドの体はかつてのフルスペックの義体には到底およばない。電脳の容量を必要とする「表情」も、本来は搭載されていない機能のはずだ。「完全」となったはずの存在の「一部」が、不完全な「肉体」にロードされている。これは、キリストの受肉のアナロジーだろう。

では、肝心の草薙の「ゴースト」の有無はどうか。これも受肉のアナロジーから読み解けるだろう。つまり、草薙がかりそめの肉体に宿った状態のときのみ、ゴーストを持つ存在としてバトーとコンタクトが可能になる。
ここから言えるのは、ゴーストは肉体にのみ宿るということである。実際、暴走を起こしたガイノイドは、生身の少女のゴーストの器になるくらい「よくできてい」た。

バトー:セルロイドの人形に魂が入ることだってあるんだぜ。

前作でバトーは、魂の宿る「肉体」の定義について、その下限を「セルロイドの人形」に置いている。上限は当然、人間の肉体であり、それを機械化していった「義体」と「電脳」だ。

キム:18世紀の人間機械論は電脳化と義体化の技術で再びよみがえった。コンピューターによって記憶の外在化を可能にしたときから、人間は生物としての機能の上限を押し広げるために積極的に自ら機械化し続けた。それはダーウィン流の自然淘汰を乗り越え、自らの力で進化論的闘争を勝ち抜こうとする意志の表れであり、それ自身を生み出した自然を超えようとする意志でもある。完全なハードウェアを装備した生命という幻想こそが、この悪夢の源泉なのさ。

「完全なハードウェアを装備した生命」は、人間を機械に近づけ、ゴーストの器たる不完全な肉体を乗り越えてしまう。人間機械論の行き着く先は、「人間もまた単純な機械部品に還元される」というディストピアである。

草薙と人形使いの融合は、こうした肉体からの解放という一面も持つ。なぜなら、「情報の海から生まれた生命体」である人形使いには、もともとボディーがないからだ。ほぼほぼ「完全なハードウェア」であった草薙の完全義体は、彼女のゴーストの器にはなりえなかった。だから、草薙は「均一なるマトリクスの裂け目の向こう。広大なネットのどこか」へ行ってしまった。そのすべての領域に融合してーー。

では、今もなお「ほぼほぼ完全なハードウェア」にゴーストを宿し続けるバトーは、どうやって生きていくのか。

荒巻:最近のあいつ(バトー)を見ていると、失踪する前の少佐を思い出す。"孤独に歩め。悪をなさず、求めるところは少なく。林の中の象のように"。

部長の荒巻が引用するのは、ブッダの言葉だ。押井監督によると、前作で草薙が9課から姿を消したことが荒巻を消沈させているらしい。前作の草薙が「仕事」とアイデンティティーを同一化させた果てに失踪したように、バトーもまた姿を消すのではないか。荒巻はそう懸念している。

ゴーストを持つ存在は、なぜここまで孤独にならざるをえないのか。わかり合ったり、共存することを本作は許さない。孤独のうちに「仕事」を続けたその果てに、「守護天使」が現れるかもしれない。そのときが訪れるまでは、魂を持たず、それゆえ完全な存在である動物、子ども、人形をめでつつ生きるしかないのだ。

草薙:”童子(わらべ)のときは語ることも童子のごとく、思うことも童子のごとく、論ずることも童子のごとくなりしが、人となりては童子のことを捨てたり”。

前作で草薙は『新約聖書』《コリント人への第一の手紙》の一節を引く。不完全な認識を持つ存在(童子)であった自身が、人形使いと融合したことで完全な認識を持つ高次の存在(人)となった。一度「人」となっては、「童子」だったころの認識には戻れない。
さらに本作では、ハラウェイという検死官によって、よりドラスティックな「子ども論」が展開される。

ハラウェイ:子どもは常に人間という規範から外れてきた。つまり確立した自我を持ち、自らの意思に従って行動するものを人間と呼ぶならばね。では、人間の前段階としてカオスの中に生きる子どもとは何者なのか。明らかに中身は人間とは異なるが、人間の形はしている。女の子が子育てごっこに使う人形は、実際の赤ん坊の代理や練習台ではない。女の子は決して育児の練習をしているのではなく、むしろ人形遊びと実際の育児が似たようなものなのかもしれない。

トグサ:いったい何の話をしてるんです?

ハラウェイ:つまり、子育ては人造人間を造るという古来の夢をいちばん手っ取り早く実現する方法だった。そういうことにならないか、と言ってるのよ。

トグサ:子どもは……人形じゃない!

家族持ちのトグサは、感情的にハラウェイの論をしりぞける。しかし、もはや「童子」ではないトグサには、我が子がどんな存在か語ることはできない。

トグサ:そろそろ現実的な話をしませんか?

トグサ:そろそろ仕事の話、しないか?

作中で二度、脱線する話をトグサが「仕事」に戻そうとする描写が見られる。トグサは「仕事」を終え、娘のもとへ帰る必要がある。彼女が人間となる以前の存在であったとしても。

物語の最後、娘を抱き抱えるトグサに、バトーは翌朝、迎えに来ると告げる。また新たな「仕事」の始まりだ。
「シェリーのひばり」、生命を持つ前のフランケンシュタインの人造人間、バトーの飼っているバセット・ハウンド、トグサの娘、その娘が抱く人形。そのすべてが魂の交流を持てない存在である。そのことをまずは受け止め、めでること。孤独を歩む人間のよすががそこにはある。

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