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歴史や漫画、今昔。「信じる」のではなく「事実として受け入れる」。

歴史のポットキャストCOTEN RADIOを聞き始めて1年と3カ月くらい。まだまだ全部の回を聞くに至っていないのだけれど、大きく変わったことがひとつ。それは「歴史に多少リアリティを持てるようになった」こと。

「鬼滅の刃」「薬屋のひとりごと」「キングダム」などなど、一通りメジャーなアニメもハマって見ているのだけれど、アニメを見ながらもどこかぼんやり史実をもとに話すポットキャストのことを思い出す。

もちろん盛りに盛ってアニメになっているのは重々承知だが、共通点を見つけると、「やっぱりこの時代って本当にこんな感じだったのかな」とか昔の女の人や子供の扱いって…と些細なことでも気づきがあって、それがリアルだったのかも。と思えるようになった。

私の中で、歴史はずっと物語だったと思う。旅行に出かけて、お寺や神社、石碑などを見ても「へぇ~」で終わっていた。

でも今は「まじか…」という感想と、「本当に・・・?」と思う。その場合は、自分の中に情報が足りないからだろう。

エアコン、スーパー、ガスコンロ、洗濯機が家になく生きていた時代が本当にあった。「栄養バランスに気をつけなきゃ」と考えて料理もするけれど、なんとも夢のような話。ろくに食べられない時代もあった。
(もちろん寿命が違うので、栄養は大切なのだけれど)

「リアルに思える、感じる」「リアルとして受けとる」のと「文字情報だけで理解する」には大きな乖離がある。これをすごく感じるのが歴史だった。今でも「ほんとに?」どこかで思っている気もする。「信じられない、うそでしょ?」。でも「本当なのだ」。昔の人はすごすぎる、人間業じゃない、と思ってしまう。

昨日見たテレビで、口笛で会話する「クシュコイ村」が紹介されていた。(youtubeを発見!)100人いる村人の中で、今それができるのは50人くらいだそう。携帯電話が普及して使う人が減ったのだと。それはそうだろう。

人間業じゃない、の現存かも。これもいつか、歴史になるのかもしれない。

物が機械で作られていなかった時代。昔みんな手で作っていた。分業・輸入の社会の中で育ったので「にわかに信じられない」という気持ちがどこかにある。でも、確かにそれはきっと手で作られていた。もちろんいろいろと輸入されてきたんだと思うけど、最初に作った人が確かにいる。これってすごいことだなぁと思う。

こうやって、世界のいろいろなことを知れるようになったのも文明の発達のお陰。ありがたいことだ。

話はそれたけれど、「事実として受け入れる」って意外と難しい。

具体例を挙げると、「子供が考えていること」とか「どうもかみ合わない人との会話」とか。

「なんでそうなるの?」「どうして?」「いやだ…」「うそでしょ…」とかそのような感情がどうしても生まれてくる。そうゆうのを一切捨てて、「その人がそのようなことを話している」ということを一旦事実として受け入れる。そしてどう行動するのがいいのかを考える

子育て本で「なぜダメなのか」「なぜ」を大切に、という類のを多く目にしてきたけれど、子育て初めて8年で思ったことは、子どもの行動に「なぜ」「どうして」なんて理由はない。

子どもが「なぜ?」「どうして?」と思ってもいいけど、大人は、多くの場合「なぜ」を子どもに求めてはいけない。なぜながら、聞いても答えはないから。子どもも大人も理由が分からないから、余計に不快=不機嫌になる、なんてことが起きる。

「事実として受け入れる」というのは、変わる時代の中で、楽しく生きるスキルかもしれない。


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