こがらしの吹くにつけても

小学の頃、私のクラスには五十嵐がふたりあった。
ひとつのクラスに名字の同じ者が複数あることは決して珍しいことではないだろう。
しかもこのふたりは名も同じ――仮に太郎としておく――であり、且つ亦住所も同じ一丁目であったため、私を含めたクラスの皆は困惑した。
それで我々は皆で相談して、体躯の大きい方をオオガラシ、小さい方をコガラシと呼ぶことに決めた。
小学生にしてはよく考えたモノだと、今にしては思う。何しろ、大柄氏に小柄氏である。勿論当時の我々が、そんな気の利いた粋な真似をしようと名付けたものではなく、偶然出来上がったものだった訳だが。

ところで、我々が普段パンダ、パンダと呼ぶものは実際はジャイアント・パンダのことである。ところがこの世界にはパンダが2通りあり、もう一方はレッサー・パンダと呼ばれる。詰まり、大きいパンダと小さいパンダと言う訳だ。
しかし、ジャイアント・パンダの方は、何時しかジャイアントを略され只パンダと呼ばれるのに対し、レッサー・パンダの方は略されることなく小さいパンダと呼ばれ続けている。何ならパンダを略され只レッサーである。

さて、オオガラシとコガラシを最初の内こそ使い分けていた我々だが、その裡面倒臭くなったからか、段々に大柄の方は普通にイガラシと呼ぶようになった。しかし何故だか小柄の方はそのままコガラシであった。時には只コガと呼ぶ者さえあり、そうなるとイガラシは何処へやら最早別姓である。
兎に角、前述したパンダの例とこの件は無論事情が違うだろうが、奇しくも小さい方の呼称は残ったのだ。
決して大層な事情があった訳ではない。オオガラシは呼び難くコガラシは呼び易いという単純な事情だったように思う。

そんなコガラシは人気者と言うのとは違ったけれども、クラスの誰からも愛され慕われる存在であったことは間違いない。実に嫌みのない気持ちの良い生徒であった。
そんな彼は迚も笑い上戸で、一度笑い出すと中々止まらない、そしてその笑い声は、心底可笑しくて堪らないといった感情の籠った大きなもので、正に哄笑と呼ぶに相応しいものであった。
そんなコガラシが笑えば、我々もその笑いに釣られて笑い出し、何時しか教室中が笑いで包まれる、というのが常であった。
コガラシの周りはいつも笑顔で満ちていた。

そんなある日の給食時、一体何がコガラシの琴線に触れたのか知れないが、何時ものゲラゲラが教室に響き渡った。
牛乳を口にした際に吹き出したらしく、彼の机と給食のお盆やその周辺は白いものでビショビショだった。コガラシは口から牛乳を滴らせ乍ら尚もヒーヒー笑っていた。時々、口中にまだ残っている牛乳を吹き出した。

その様が小学生には如何にも面白かったのか、後日、牛乳を含んだコガラシを笑わせてそれを吹かせる、という「遊び」が我々の中に流行してしまった。
聊か知恵の足りない、礼節と配慮に欠いた、実に小学生らしい下品で馬鹿げた発想である。タイムマシンがあれば、自分を含めたこの当時のこのクラスの糞餓鬼どもを追い回して、一人残らずベースボールバットで打ん殴って、悉くその性根を叩き直してやりたい、その位猛省しております。

初めの内こそ小ネタや小噺や一発ギャグでコガラシを吹かせていた我々であったが、ネタは尽きるはコガラシの方でも耐性が付いたのか、滅多矢鱈と彼が牛乳を吹くことがなくなっていった。
さて、ここで事件である。業を煮やした何某彼某が、強硬手段に打って出たのだ。詰まり「くすぐり」だ。
これにはコガラシも堪え切れずに久々に牛乳を噴出した。それを見てクラスはまたドッとなる。

しかし、当のコガラシは笑っていない。それ許りか泣いている。
吹き出した牛乳が目に入ったらしかった。
その時「あなめ、あなめ」と叫んだか「オーノー」と言ったか言わないか知らないが、兎に角、目に入って大層痛かったらしい。

その日の放課後は緊急学級会であった。
流石にあれは「いじり」を通り越した「いじめ」であったと、クラス全員各々反省し、一人ひとりコガラシに対して反省を述べ心から謝罪をした。

こうして、翌日からコガラシと牛乳に安堵の日々が戻ってきた訳だが、彼は相変わらず、珠にツボっては牛乳を吹くのであった。
普通なら、そんな他人の吹き零した牛乳の処理など嫌なもので、誰もやりたがらない処だが、コガラシの人徳の為せる業なのであろう、「きたねえなあ」などと言い乍らも誰もが皆率先して後片付けを手伝ったものだった。

さて、これが木枯らしの季節であれば、木枯らしとコガラシをかけ、木枯らしの吹く度にコガラシを思い出す、という話になるかも知れないし、コガラシは既に鬼籍に入っているという流れもあろうかと思う。

しかしこれを認めている今は、正に夏真っ盛りである。木枯らしの季節はまだ遠い。
ただし、コガラシは居ない、というのは当たっている。しかしこれは嘗て居た者が今はもう居ない、と言う事ではない。
元から居ないのである。
オオガラシもコガラシも、牛乳を吹かせた奴らも、ここに登場した人物全てが、元から居ないのだ。起こった事も元からない事なのだ。

詰まりこれは創作なのである。

「秋風の吹くにつけてもあなめあなめ」
この句がどうしたものか、この数日頭から離れずにいたので、一丁これをテーマに認めてやろうと思い立ち、筆を執った次第である。

実の所、ただそれだけの話なのだ。

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