枝豆はもう茹でない
今日猛暑の最中、晩酌の為に枝豆を茹でた。
虚弱体質の私にとっては、斯様な環境下での煮炊きを伴う調理は苦行どころか自殺的行為に等しい。
それでも敢行したのは何故かと問われれば「食べたかったから」と言う一言に尽きる。
夕飯の買い出しに立ち寄ったスーパーのサミットで、正札の半値で投げ売りされていたものを救済を兼ね晩酌のお供として賞味したというのが事の次第である。
こいつは果たして俺に買われたいのか俺が買いたいのかという問答の間もなく、これは是非買わねばならないという焦燥にも似た渇望の念に苛まれ、と言ったことはなく、何の躊躇もなく手に取り籠にイン、というのが実際の所だ。
非常に美味であった。
枝豆は旨い。堪らなく旨い。
近年は冷凍のものであっても、味に文句のないものが多く出ているが、矢張り生モノにはまだまだ敵わないと感じる。技術はまだ途上であるのだろう。
我が命を賭してまで茹で上げた枝豆であるが、今し方驚愕の調理法を知り私は愕然としている所である。
それは、茹での行程を必要とせず且つ又、美味に仕上げるという夢の様なものである。
鍋など使わずフライパンで蒸し焼きにするというのである。
茹での行程に伴う灼熱地獄からの解放。
自由である。私はもう捕らわれないのである。最高ではないか。
煮るなり焼くなり好きにしろ、枝豆がそう言っているように聞こえた。
次回からはこの方法で、美味しい枝豆を晩酌でいただこうと思う。
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