漱石と「ホトゝギス」

1897(明治30)年、海南新聞社(現・株式会社愛媛新聞社)で記者を務める傍ら俳句を嗜む柳原正之により「ほとゝぎす」として愛媛県松山市で創刊された月刊俳句雑誌がある。
俳人であった彼は号を極堂といった。同郷の俳人・歌人である正岡子規とは「文友」の間柄で、この「極堂」と言う号はその子規が名付け親である。そんな極堂は、子規が当時推進していた「俳句革新運動」の一助としてその理念の啓蒙を目指し、これを創刊したとされる。

翌年には、「ほとゝぎす」の理念「客観写生」「花鳥諷詠」の提唱者、高濱淸こと俳人高浜虚子に有償譲渡され、拠点を東京に移し『ホトゝギス』として再出発した。因みに「虚子」という号もまた、子規が名付け親である。子規は、虚子の本名「きよし」を捩り「虚子」としたのだ。

この時期の虚子は、俳句への興味が薄れ自ら筆を執る程に小説へ傾倒していたという。それ故か、当時「愚陀仏」の号を持つ俳人でもあった英文学者夏目金之助(漱石)への小説執筆依頼という運びとなったのだろう。
1905(明治38年)年1月、その小説は発表された。『吾輩は猫である』だ。運命とは実に皮肉なもので、この漱石の連載小説は当時非常な好評を博し、同誌の売り上げは大幅に伸びた。理念はさて置き、その名は広く世間に周知されたのだ。
ともあれ、俳句雑誌である同誌への小説掲載比率は徐々に高まることとなり、結果明治期の「ほとゝぎす」は俳句のみならず和歌や散文まで掲載する総合文芸誌として広く親しまれた。因みに伊藤左千夫の『野菊の墓』も同誌に発表された小説である。

そして『吾輩は猫である』掲載の翌1906(明治39)年、「ホトゝギス」第9巻第7号(4月1日)に一話読み切りの巻末附録という形で、『吾輩は猫である』十章と同時掲載されたのが『坊っちゃん』である。
これはまた、1907(明治40)年、短編集『鶉籠(ウズラカゴ)』(春陽堂刊)に二百十日、艸(草)枕とともに収録、出版された。それ以降出版各社から単発で書籍化され広範に読まれることとなる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?