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より寛大に、が我が目標

より寛大に。最近はそんなことを考えながら生活している。しかし、人間とはそう簡単には変われないもの。その前になぜ私は寛大になれるよう意識しているのか。それは多様性が求められる社会で、寛容性がなければすぐに問題へと発展してしまうからだ。これは消極的な理由である。

では、なぜ多様性を考える上で寛大な心を持たなければならないと思ったのか?それは人間誰しも経験していると思うが、自分が理解できないものは認められないという無意識のものがあるからだ。

差別はいけない、そんなことはわかっている。しかし差別をしていない、ないしは、差別意識が全くないと自信を持って言える人はどれだけいるだろうか?少なくとも私は差別意識は気づかないところでたくさんあるであろう。例えば、自分の価値観と相いれない人がいたとする。ではその人とどう向き合うかは正直答えのない禅問答のようになってしまう。

そこで私は考えました。多様性を考える上でできること、まずは相手のことは考えず、干渉することを避ける。または最低限の挨拶にとどめ、付き合わないようにする。個人的に最も苦手なタイプが暴力的なタイプである。そんな人と出会ったらどうするか?正直逃げるしかないであろう。これはあくまで極端な例で、解決策も出しやすいものだが、もっと難しい問題もある。

例えば、最近よく話題になるLGBTについてだ。個人的には周りにそういう人がいないから、何と問われたら正直答えられない。それに、何が問題なのか正直まだわかっていない。なので、例えば同性婚に賛成か反対か、と言われたら、明確にこうだ、と言えるものもない。

ここで難しいのは、同性婚を望む人と望まない人がいたとする。多様性を考えるなら、認めるべきであろう。だが、認めたとなれば、望まない人の意見は無視されてしまう。法律の問題であるならば、可か不可のどちらかに着地しなければならないため、どちらかの立場の人が折れなければならない。

この時点で多様性を認めるということは不可能になってしまう。要はゼロサムで考えれば永遠に答えは出ない。

ではどうするか。私が考えたのは寛大になろう。それだけ。どんな人がいてもいい。ただ自分に直接被害がなければ、というところに落ち着いた。正直これでは何の解決にもなっていない。だが、白黒はっきりつけないことが最大の解決策である。というものも世の中あるのだ、と思うことが最も多様性を考える上で必要なものなのかもしれない。白黒はっきりさせたい人にはもどかしいかもしれないが、一生平行線を辿ることは別に悪いことではない、と割り切ってしまおう。

ただ法律上の問題は今後ずっとついて回る。少なくとも素人解釈であっても、同性婚はどう考えても憲法違反になってしまう。であれば憲法自体を改正せねばならないが、そのハードルも高そうだ。憲法改正となれば、無関係の条文まで持ち出されて収拾がつかなくなることも予想される。その前に発議すらされていないのだから、騒ぐ以前の問題だが。

こればかりは時間をかけていく以外に解決策はないだろう。むしろ解決されると思ってはいけないのかもしれないが。

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