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やる気のカラクリ

ずっと思っていたことがある。
このままでいいのか。
もはや、気力がなくなってきているのを感じるしここから先に対して想いが入らなくなってきている。

誰かに言われたからかとか、何かキッカケがあったとかではないのだが、積み重なってきてものがいよいよコップにいっぱいになってしまって溢れてしまったのかもしれない。

やる気が出ない。
新しい事に挑戦したいと思いながらもあともう一歩が出ない。
今までこんな事はなかった。
思い立ったらすぐ行動できていたし、そのスピード感が自分の武器だと思っていた。

前にも書いたが、もうどうでもいいという感情が慢性化してきたせいか、本当に仕事への意欲がなくなってきている。
人と関わることや、何かを考えること、そういったことが本当に億劫になってしまった。

そもそも仕事とはなんだろうか。
そんなに必死になってやるべきことなのだろうか。
生活のため、関わってくださる人のため、応援してくださる方のためなど色んな意味合いはあるだろうがどれをとっても一生懸命止まりでいいと思うのは私だけだろうか。
もちろん、自らがそれを望み高みを目指したい、自分の限界を知りたいという場合は別だが、ほとんどの場合、一生懸命を超えて必死な状態で働く人は何かや誰かに直接的、間接的問わずに強要されている部分も少なからずあると思う。

必死になるとは、心も体も限界突破する可能性が出てくる。
ある所まではその状況に対して耐性が生まれ耐えれるようになるが、ある一線を越えると積み上げてきたものが土台から崩れ落ちていくイメージを持つとわかりやすいかもしれない。
張り詰めた糸が切れると言った感覚にも近いかもしれない。
それがいつ来るのか分からないから余計にコントロールが難しい。
気持ちとは裏腹に体は拒否しているのを無理矢理に鼓舞して頑張り続ける。
それがなんの答えになり、誰の為になるというのだろう。
ある意味やる気をコントロールするというのは社会において必要なスキルではあると思うが、エナジー系ドリンクと一緒で一瞬の爆発力を得る代わりにその後はものすごい脱力感や疲労感を感じるようになる。
ましてや、これを何度も繰り返せばそれ無くしてやる気を出すことが難しくなるし、その効果も薄まりスイッチが入っている時間も徐々に短くなっていき、知らずのうちに心身のバランスは崩壊していく。
これ程までして得られるものがそこまで大きく無いのなら必死にやる気を出し続ける事の価値とはどこにあるのだろうか。
一生懸命さだけでは伝わらないところがあるのもわかるが、結果を求められ自我を失うまで自分を追い込んだ先にあるのは、崩壊しかないと思う。

自分の今の立場を鑑みても同じと思うところもある。
経営者だから必死にやらないといけない。
確かに一理ある。
壊れても誰かがその責任を取ってくれるなら…

そんな事はあるわけないのだ。
壊れたとしてもそれも自分の責任。
壊れないようにコントロールしながらやったらもっと必死にやれ。
誰の物差しで測られるのか、なぜそれに応えなければいけないのか。
明確な答えがわからないし見つからない。
数字だけを追う方がどれほど楽か。
人に頭を下げるだけの方がどれだけ楽か。
答えのない答えを探していかなければいけない苦悩に比べれば大したことない。

本当にやりたい事をやりたいようにやれる。
だからやる気が出る。
人間とはそういうカラクリで成り立っていると思う。
抑圧された中でやる気なんて自然的に出す事は出来ない生き物。
やる気は無理やり出すのではなく、自然発生的に生まれるもの。
大人になればなるほどやる気スイッチの数は減っていく。
無理して続けることに価値があったとしても、それを肯定できるのはごく一部の成功者だけ。
しかも、払う代償はそれなりにあるだろう。

現代において、今を必死に生きた先にあるものと、今を一生懸命生きた先にあるものとどちらが価値があるのだろう。
人それぞれ答えは違うかもしれないが、個人的にはその先にあるものを愛でる余裕がある状態の方が幸福度は高いのではないかと思う。

やる気を引き出す環境を作り出すことが1番大切であり、必死になってしまえばやる気どころか幸福的思考回路など出てこないまま。

形から入る。
やる気の出るカラクリは綺麗に着飾った状態の自分を見た時に湧き出てくる感情に近いのかもしれない。


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