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国際秩序のモデルを使って見る近代現史その2~ウィーン体制の崩壊、ビスマルク第一次世界大戦~

こんにちは、こんばんは、
おはようございます!Renta@マレーシア
から国際関係論について考える人です!

今回のnoteは、国際秩序のモデルを使って
見る近代現史その2です。

範囲は19世紀半ば~20世紀の初頭のヨーロッパ
です。
ヨーロッパが国際秩序の中心だった最後の時代です。

今回のnoteを読むメリットは以下です

  • 第一次世界大戦が起きる時代的背景がわかる

  • 国際秩序が崩れる過程を学べる

国際秩序のモデルってなんだ?という方はこちらのnoteをぜひご覧ください

また、国際秩序のモデルで見る世界史1はこちら。スペイン継承戦争、フランス革命~ナポレオン戦争、ウィーン体制を扱っています。
また、3つの国際秩序のモデルについて軽い説明も行っています。

では早速始めていきます!

1848年とクリミア戦争がウィーン体制を終わらせた

ウィーン体制の特徴

ウィーン体制とは、ナポレオン戦争の再発を防ぐために作られた、バランスの体系とコンサートの体系の組み合わせた国際秩序のことです。

バランスの体系=各国の軍事力を釣り合わせて、侵攻を防ぎ、国際秩序を保つ。ウィーン体制では敗戦国フランスを大国として再び迎え入れることで達成。

コンサートの体系=各国の利益を調和させて、
紛争を解決し、国際秩序を保つ。
ウィーン体制では、定期的に大国間で外交会議を行うことで実現。
※ウィーン体制までは、平和な時代に外交することは珍しかった。

そして、このバランスの体系とコンサートの体系を支えていたのが、指導者層が共有している価値や理性でした。
つまり、そもそもヨーロッパの王様たちは
親戚同士
だし、当時の外交官も
哲学や歴史に造詣が深かったので、自然と抑制が効いていた、というのがポイントです。
この王家の繋がりと理性に支えられた
ウィーン体制が19世紀半ばの2つの事件によって揺るがされることになります。


1848年革命

1つ目の事件は1848年革命です。

1848年革命とは、ヨーロッパ各地で起きた君主制国家に対する、自由主義、ナショナリズムの反乱のことです。

例えば、

  • フランスの王政瓦解

  • ウィーン体制を支えたオーストリア宰相のメッテルニヒがロンドンに亡命

  • ミラノ、ヴェネツィアでの革命

  • 当時オーストリアの支配下にあったハンガリーの独立運動

また、1848年2月にマルクスとエンゲルスの
共産党宣言が刊行されています。

ここでのキーワードはナショナリズムです。
ナショナリズムに目覚めた中層~下層市民は自分がいる場所を一番に考えます。1848年革命はそのような勢力が政治的に力を持ち始めた端緒でした。

これはウィーン体制の弱体化を意味します。
メッテルニヒを始めとする当時の首脳が
他国の王族や宰相と親戚関係であるという前提が崩れ始めたからです。

クリミア戦争

2つ目の事件がクリミア戦争です。

クリミア戦争とは、1853~56年に
ロシアが南下政策を積極化させ、オスマン帝国に宣戦したことに対し、イギリスとフランス及び
サルデーニャがオスマン帝国を支援した戦争です。

結果としては、ロシアが敗北し、パリ条約で
講和、オスマン帝国の領土は保全され、ロシアのバルカン方面での南下はいったん抑えられました。

つまり、メインイシューはロシアのトルコ南下を抑え込むことにある。だから、直接の利害関係国は、ロシアの隣国だったオーストリアや黒海に港を持っているイギリスです。

しかし、開戦したのはフランスのナポレオン3世。彼はフランスナショナリズムの象徴的存在でした。
ナポレオン3世は、国民の人気を踏み台にして
ポピュリスト的な支持を集めており、叔父の皇帝ナポレオンのような偉大な戦勝を求めて開戦を決断しました。
そもそもナポレオン3世が1848年革命に乗じて
フランスの大統領→皇帝となっており、19世紀的な情熱やナショナリズムを秘めた国民世論を意識した指導者であると言えます。

つまり、1848年革命でナショナリズムが
盛り上がり、そのような勢力に支えられた政権が戦争を引き起こした時点でウィーン体制は崩壊したと考えることができます。

ウィーン体制崩壊後は、力の均衡による平和の時代となった

ではウィーン体制が崩壊したら大戦争になった!というわけではなく、しばらくは(つまり第一次世界大戦までは)比較的落ち着いた時代が続きました。
それは、ドイツ帝国初代宰相ビスマルクによって作られた、緻密な計算によるバランスの体系です。

ドイツ帝国宰相ビスマルク

まずはビスマルクがどんな人物で、どんな時代に生まれたのか見ていきましょう。

ビスマルクは1860年代に国際政治の舞台に
登場し、もとはプロイセン宰相でした。
彼が宰相を務めている時に、プロイセンは
バラバラだったドイツの地方の諸侯をまとめ
ドイツ帝国になります。ビスマルクはそのまま
ドイツ帝国初代宰相になりました。

では、そんなビスマルクは以下のような流れで
国際秩序を作ることになりました。

  1. ドイツ地方には諸侯が溢れており、プロイセンもその1つ。主に軍事力によって統一を実現、ドイツ帝国を作る(介入してくるオーストリアとフランスを戦争で倒しておいた)

  2. 統一後、フランスの恨みを買ってしまったので、戦争を仕掛けられないように国際秩序を考えていくことになる

ビスマルクは国際体系を国家間の力と利害以上のものではないと考えおり、ウィーン体制のように共通の価値を強調することはありませんでした。そこでドイツの安全を確保するためには、他国の誠意ではなくて、自国の軍事的な強大さと、自国に有利な同盟や戦略バランスである、と考えました。

これはビスマルクが悪いのではなく、ビスマルクが登場したときには、1848年革命やクリミア戦争を経て、ヨーロッパの「共通の価値観」は失われていました。代わりにナショナリズムが興隆していたので、バランスの体系にもづいて秩序回復を図るほかなかったということです。

ビスマルクの外交

ということで、ビスマルクの外交を見てみましょう。
ビスマルクの外交は2つの軸で支えられています。

  • 多数派を形成する

  • フランスを孤立させる

当時のヨーロッパの大国は英露仏独墺でした。
なので、ドイツ含めて3つの国で同盟を組めればOKです。
また、ドイツ帝国を作るにあたって介入してきたフランスは戦争しているので、恨みを買っています。だから、フランスは一番警戒しなければいけません。
また、当時のイギリスは「光栄ある孤立」といって大陸不干渉政策を取っていました。
そこで、多数派を作るために、オーストリアとロシアと同盟を結ぶことになります(三帝同盟)。
また、

ここで大事なのがオーストリアとロシアの関係性です。当時はオーストリアとロシアは隣国であり、バルカン半島の権益を求めて争い合っていました。
つまり、この2国は同盟を結ぶ動機が薄いです。
そこをビスマルクは外交の技術とドイツ帝国の軍事力使って何とか結びつけていました。

つまりビスマルク体制は、彼の能力に基づいた属人的な側面がありました。
当時のドイツ帝国皇帝だったヴィルヘルム1世は「「私ならお前と同じことはしたくない。私には時にお前が5つのボールをもって馬にまたがり、1つのボールも落とさずに曲芸を演じている騎手のように見える。」とのべていました。

…つまりビスマルクがドイツ帝国宰相を退ければ崩壊の可能性があるということです。

第一次世界大戦はナショナリズムの熱情とバランスの体系が崩れたことによって起こった

ビスマルク体制の崩壊

前節で述べたビスマルク体制は、本当に彼の辞任によって崩壊してしまいます。辞任を迫ったのはヴィルヘルム1世の孫であるヴィルヘルム3世です。

ヴィルヘルム3世の外交によって、ドイツ帝国は
一気に包囲されてしまいます。

ヴィルヘルム3世の政策はこの2つが大事です

  1. ロシアとの再保障条約破棄(つまり独墺露の多数派を解体する)

  2. イギリスに建艦競争を仕掛ける

背景にはドイツは1国で十分強大であるという
慢心がありました。

他国の反応はこんな感じです。

  1. 露仏協商(孤立していたフランスがロシアと同盟を結ぶ)

  2. 英国が露仏に割いていたキャパをドイツに向ける(建艦競争激化)

2についてなのですが、イギリスはフランスとはアフリカや東南アジアで、
ロシアとは中央アジアと東アジアで植民地競争をしていました。
しかし、フランスとはアフリカのほとんどの地域を植民地にしてしまってもはや争えませんし、ロシアのアジアへの野心は日露戦争でくじかれました。

そこで、安心してドイツを警戒できるようになったのです。
構図を整理すると、「独墺vs英仏露」になりました。

ドイツは少数派になって、フランスは孤立から脱したのでビスマルク体制は崩壊しました。

第一次世界大戦の発生

ビスマルク体制が崩壊し、互いの軍拡を警戒するようになったことが第一次世界大戦につながります。

しかし重要な指摘としては、「イギリスとドイツが戦争を起こす必然的な理由はない」ということです。なぜなら、

  1. ドイツはそもそも陸軍大国

  2. ドイツは後発帝国なので、植民地などの利害関係もない

からです。戦争が合理的ではないのなら、非合理性、不合理性が背景にあると考えられます。以下のようにまとめられるかもしれません。

  1. 人々の考え(内的な要因):
    ナショナリズムの興隆による、他者への嫌悪、自国民の優越感

  2. 外交(外的な要因)

    1. 独墺vs英仏露という二極構造の固定化

    2. 共通の価値観の欠如

    3. ドイツの強大化に対する警戒心、ドイツの慢心

まとめ

今回はウィーン体制の崩壊から第一次世界大戦まで見てきました。この時代の特徴は何よりも
「ナショナリズム>理性」でまとめられると思います。

ナショナリズムの熱情がヨーロッパ中を覆った
結果、王朝の繋がりによる平和や理性に基づいた抑制が薄まりました。
長期的にはそれが、第一次世界大戦の勃発に
繋がっていきます。

次回noteでは、2つの世界大戦が国際秩序にどんな影響を及ぼしたか見ていきます。最後まで読んでいただきありがとうございました!

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