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5 マニラにおける戦いから 〜戦争の最中にあっても〜

 昭和19年の暮にマニラ航空廠から私達の隊に一枚の地図が渡された。それにはマニラとリンガエン湾の中間に一本の線が引かれていて「米軍がこの線まで来たら、イボの山中へ入って河島兵団の指揮を受けよ」と命ぜられた。そして本隊は山下将軍と共に北上してしまった。その頃、米軍の300隻といわれる大輸送船団がマニラ湾の西を北上していた。僅かに残っていた特攻機が出撃する程度で、私達は殆どする事がなくなったので毎日遊んでいた。しかし米軍の爆撃は激しく、夜には銃声が聞こえ、時たまゲリラの犠牲になる者もあった。

 そして近く激戦地になる事が予想されるのに現地人は至極のん気に生活を楽しんでいた。日中から麻雀をやっているのをよく見かけたし、あちこちからピアノを弾くのが聞かれた。或る日エスコルタの劇場をのぞいたら超満員なのでびっくりした。肩越しに、舞台では華やかな照明を浴びて踊り子達が踊っているのが見えた。内地ではとっくに禁止されていた光景であった。そしてどこの家でも彼女らがピアノを弾いたり歌を歌って歓待してくれた。彼女らの家でも物資が欠乏していた様だが一度もぐちが聞かなかったし、暗さを全く感じなかった。私が内地からクラークフィールドへ着いた日、軍の食堂で働く給仕の娘達の明るさには驚いたものだ。何の屈託もなく常に大声で我々も交えて談笑していた。何の話をしていた時か忘れたが、「日本バナナ、アメリカバナナ、オナジ」と云って楽しそうに笑った娘が何故か今も印象に残っている。
 精神主義を唱えて、しかめっ面をした暗い日本からまるで別世界に来た感じがした。よく、日本人は天孫民族だといわれるが、フィリッピンで生活したら、初めてその実感が判るだろう。

 年が明けると米軍がリンガエンに上陸したという情報が入った。1月も10日過ぎになると早くも夜、北の方の空が砲撃をしているらしく間断なくパッと明るくなるのが見える様になった。その頃もグラマンの銃撃はずっと続いていたが、日本軍も地上から応戦したから時たま火を吹いて撃墜されることもあったが、彼らは目の前で友軍がやられても、決められた目標に向かって弾丸がなくなるまで繰り返し繰り返し地上すれすれまで突っ込んで来た。その勇敢さはその後もしばしば見せつけられた。私たちが内地で「日本男子は勇敢だが米軍は弾が飛んで来たらいっぺんに逃げ出す」と聞かされていたのとは全く正反対であった。

 また郊外を車で走っていて米軍機に見つかると銃撃して来るのでハイウェイの傍には所々その残骸が転がっていた。しかし米軍機を見つけ次第、民家の庭へ逃げ込めば絶対攻撃されることはなかった。この事を戦後内地で友人に話したら「信じられない」と云って首をかしげた。しかし我々は飛行場の付近の民家の庭で飛行機の整備をしていたのだが一度も攻撃されなかった。そして直ぐ近くの残骸しかない飛行場が盛んに爆撃されているのを平気で眺めていた。そして米軍がそれだけ現地人に配慮して人道的に戦っている時、地上で日本軍は現地人に残虐行為を行っていたのである。当時の米軍には建国の精神というか正義感が溢れていた。そしてベトナム戦争で病めるアメリカを見て、私はその変わり様に驚いた。

 熱帯の暑さの中で夜郊外をドライブするのは実に爽快だった。フィリッピンは鉄道が少ない代わり道路は良く整備されていた。郊外の森林地帯を抜ける立派なハイウェイがあったが、その密林がゲリラの巣窟だという噂だった。いつかそこを通り抜けようとした近くの隊の車が銃撃され、乗っていた兵の一人が大腿部に貫通銃創を受けた。
若さにまかせて私は良く、夜遅く兵隊に銃を構えさせてドライブに出た。或る夜例の辺りでライトに人影が見え一瞬ハッとしたが、道の真ん中で両手を挙げているし、傍に車があったので近づいて見ると、「車がエンコしたので引いて帰って欲しい」と云う事だった。素早くロープでつないで出発したのだが、暫くして後ろを見ると引いていた車が無いのに気付いた。引き返すべきだと思いながらゲリラも恐かったしそのまま帰ってしまった。この事をふと思い出す時「彼等は無事だったろうか」と何時も自責の念がつきまとうのである。

 それと、もう一つ。1月の終りは闇夜だったが、民家の点在する村を走っていてゲリラから銃撃を受けた。フロントグラスの前をビュッと弾が飛んだのでとっさにブレーキを踏んで飛び降り、いっせいに応戦した。そして静まり返った田の中の民家らしきものに片っ端から銃撃をくり返した。若し罪のない市民が犠牲になっっていないかと今頃になって思い出し、これも何とも気になる事である。

 そのうちに砲声もだんだん近づいて来たので、全く戦況は判らなかったが、とにかく山へ入ろうと云う事にして2月の初めの夕方、十数台の車を連ねて出発の用意をした。その時、前号で書いたA軍曹がいない事が判った。彼には親しい女性があったのでそこへ呼びに行かせた所、姿を見たが闇の中へ逃げてしまった、と云って帰って来た。そこで二台の車を翌晩出発させることにして我々は一晩かかってイボ山中の陣地へたどり着いた。ところが翌日になっても後発の連中はやって来なかった。数日後、徒歩でやって来た彼等の話によると、翌晩予定通り出発してラサールの銅像の前を過ぎ、ケソン通りに出た途端、向こうから何十台という戦車の列がやって来るのが見えた。その時日本兵が飛び出し手を挙げて制止した所ダダダと銃撃されて皆倒れてしまったので初めて米軍の戦車だと気が付いたそうだ。そのうち戦車とすれ違いになったが一本道でどうにもならない。戦車は皆天蓋を開けて米兵が顔を出していたそうだ。十台ほどすれ違った時、敵も気付いたらしく銃撃が始まった。途端に何人かがやられたが、車を捨てて民家や横道に逃げ込んで命からがらやって来た、と云う話だった。この様にマニラの最後は情報のない、つまりツンボの戦争だった。それから間もなくA軍曹もひょっこり姿を現した。しかしマニラでの出来事は語ろうとしなかった。

 山へ逃げ込んで2、3日後私がマニラで愛用し又山中へ乗って来た38年型のプリズムが銃撃されて無残な姿になっていた。これを見て私は「あゝ、これでもう二度とあの懐かしいマニラへ行くことも出来なくなった」という気がして無性に淋しさがこみ上げて来た。既にマニラには米軍が入っていたのに、考えてみれば変な話だ。さてこの時から八月の終わり迄、苦しい戦いが続くのだが、その時は珍しさもあって、そんな実感は少しも湧いてこなかった。砲撃や爆撃は相当激しかったが、マニラに居た時は民家の近くにさえいたら安全だったので、その気分が抜けていない面もあった。しかし間もなく、ここでは直接自分が狙われている事に気付いて、やっと戦争の実感が湧いて来た。

(第5号 昭和五十二年・1977年 十一月二十七日発行)

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