藻屑

大正11年(1922年)生まれの父が、職場の有志による発行の文集「藻屑」に昭和51年から57年(1976〜82年)にかけて掲載した戦争の記憶です。昭和60年、63才で亡くなった父は、生きていれば今年100才です。父の残した油絵やスケッチも見てください。

藻屑

大正11年(1922年)生まれの父が、職場の有志による発行の文集「藻屑」に昭和51年から57年(1976〜82年)にかけて掲載した戦争の記憶です。昭和60年、63才で亡くなった父は、生きていれば今年100才です。父の残した油絵やスケッチも見てください。

    最近の記事

    13 収容所にて 〜そして帰国〜

     「藻屑」に私の戦争体験を何回か書いてきたが、実は(世話人の方には申し訳ないが)いつ「藻屑」が廃刊になるか分からないという気持ちがあって、急いで終戦まで筆を進めてしまった。 ところが私の戦争の方は終わっても藻屑はまだ続いているので、逆戻りしたり又進んだり、結局昭和20年9月始め投降して、戦争中に捕虜になった将校の収容されているキャンプに入れられる模様まで書いたと記憶している。  さて、最後に収容所の生活を書いて締めくくりたいと思う。  このキャンプではあり余る程のご馳走と

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      • 12 恐怖

         一年ばかり前の新聞に今日出海が「恐怖は文明の所産であって、戦場に恐怖はない」と云う事を書いていたが、私の体験から考えるとどうも怪しいもんだ。 以前に書いた事があるが、比島の戦場で爆撃機の編隊から何十という爆弾が自分の方に向かって落ちてくる時の気持ちは、何とも表現できない怖さだった。ちょっと見ただけで後は恐怖のあまり二度と見上げる勇気がなく、地面に伏せてザーという音を聞いていた。今思うと爆弾の落ち具合いをよく見ておくんだった。 惜しい事をした。 又戦闘機の急降下爆撃に狙われ

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        • 11 戦争と一人のやくざ

           いつか暴力団がその関係の新聞に「我々は任侠の道に生きるやくざであって暴力団ではない」とか書いているという報道を読んだ事があるが、暴力団とやくざ、何か一味違ったところがある様だ。  「隊長殿、皆腹を空かして弱ってるん、判っとるんですか。も少し考えてやったらどうですかね。」作業の休憩時に私の前に座り込んで、その男は話しかけて来た。鋭い目付きで、ドスの利いた声だった。 昭和20年の2月か3月、場所はマニラ東方、イポ山中。前に書いたが、私の部隊はマニラ近辺で撃沈された船の生き残り

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          • 10 戦争は終わった

             あのニュービリビッドの刑務所を出た時の記憶がない。調書によってだと思うが、私を含め十数名の将校が選び出されて集まった様な気がする。それから一人の米兵に連れられて田舎道をぞろぞろ歩いていた辺りから憶えている。 左側に米軍のキャンプがあり、右は確か畑で農家が点在していた。しばらく行くと右手の方に鉄条網で囲まれたキャンプが見えてきた。その入り口の詰所で一行が各テントに振り分けられた。テントは15、6あり、私に割り当てられたテントが、前に私が創刊号に書いた偽病院船で俘虜になった部隊

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            • 9 懐中時計 〜米軍の刑務所にて〜

               何時迄も戦争の話で恐縮だが、他に書く事もないので続けさせて頂く。 昭和20年9月3日、いよいよ投降の日だがその朝の記憶がない。とにかく、昨夜の発熱で私は足がふらついて速く歩けなかったので、私の隊だけが取り残されて歩いていた辺りから覚えている。他の連中の姿は全く見えないし、私には部下の気が急いているのが痛い程わかっていた。やがて峰に出た時、目の前にダムが見えたので、部下に先に行って、後から一人来る事を伝える様に言った。皆喜んで、たちまち姿が見えなくなった。  私はしばらく休

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              • 8 終戦 〜山中での最後の日々、そして投降へ〜

                 戦争体験を書いているうちに、色々の出来事を思い出し、あれもこれもと記録に残したい事が出てくるが、敗軍の将、兵を語らずとか云うから、この辺で一応終戦にしよう。  かつて川島兵団の本部があったイポーダム迄はマニラから山腹を縫って立派な舗装道路が通じていたが、それから奥は人跡未踏の密林に覆われた山岳だった。米軍の猛攻を受けて敗走する日本軍は、一路東へ向かう者と、アンガット河に沿って北東に逃げる者と二手に分かれた。私は初め前者を選んだが、どう云う理由か思い出せないが、途中から一日

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                • 7 山中にて・それから 〜兵士のそれぞれ〜

                  前回の続き。  米軍の総攻撃を受けて日本軍は列を乱して敗走した。その日本軍に米軍はあらゆる火力で追い打ちをして来た。今回はその後の特に印象に残っている事を書いてみたい。私が陣地を捨てて逃げた翌日かその次の日の午前中の様に記憶しているのだが、私は幅3メートル程で半分砂地になっている川で眠っていた。近くで砲弾が炸裂する音で目を覚ますと、頭の辺りを5、6人の兵隊が「ここは危ないぞ」と叫びながら走り去った。私が又ウトウトと眠りかけた時、再び近くで砲弾が爆発した。すると10メートル程離

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                  • 6 山中にて 〜爆撃に怯える〜

                     山の陣地へ入って間もない頃、丘陵地帯の森と草原の入り混ざった所を部下を連れて歩いていた時の事である。ザーと云う音がして来たので空を見上げると十機程の爆撃機の編隊から爆弾が何十発となく落ちて来るのが見えた。しかもその爆弾が全部自分の方へ向かって落下する様に思われた。今考えると不思議だがその時はどちらかへ逃げようと云う考えが全く浮かばず、とっさにその場に伏せてしまった。私はザーと云う音が刻々と近づいて来る間、唯「もう駄目だ、もう駄目だ」と心の中で叫んでいた。やがてすぐ近くにドド

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                    • 5 マニラにおける戦いから 〜戦争の最中にあっても〜

                       昭和19年の暮にマニラ航空廠から私達の隊に一枚の地図が渡された。それにはマニラとリンガエン湾の中間に一本の線が引かれていて「米軍がこの線まで来たら、イボの山中へ入って河島兵団の指揮を受けよ」と命ぜられた。そして本隊は山下将軍と共に北上してしまった。その頃、米軍の300隻といわれる大輸送船団がマニラ湾の西を北上していた。僅かに残っていた特攻機が出撃する程度で、私達は殆どする事がなくなったので毎日遊んでいた。しかし米軍の爆撃は激しく、夜には銃声が聞こえ、時たまゲリラの犠牲になる

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                      • 4 皇軍と赤軍 〜日本軍とソ連軍のあり方を考えてみる〜

                         戦時中、私は対ソ連戦にそなえて労農赤軍(この言葉がよく出て来た)の教典を勉強した事がある。その時、ソ連軍では将校は兵に対して射殺があることを知り驚いた。将校は誰でも判断一つで公然と兵を殺せる事に何か不気味な怖さを感じたものだ。  ところで終戦後、北朝鮮から引き揚げて来た近所の人に次の様な話を聞いた。彼が居た北朝鮮の町にソ連軍が進駐して来た時、彼の知り合いの娘さん(日本人)がソ連兵に暴行された。彼女は泣き寝入りせず司令部か何所へ訴えて出た。すると直ちに全員が町の広場に集めら

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                        • 3 戦いの一コマ 〜比島の山中に於いて〜

                           又戦争の話で恐縮だが・・・、昭和19年の事である。マニラの某飛行場で航空機の整備をする一隊があった。約50名の技術兵と警備に当たる40才前後の召集兵20名余りがその主体であった。技術少尉であった私は12月頃その隊へ配属になったのである。やがて年が変わり米軍がマニラに進攻してくるのと前後して隊はマニラ東北のイボの山中に逃げ込み、河島兵団の指揮下に入った。米軍はすぐには攻撃して来なかったが、砲撃や爆撃は日毎に激しさを増していった。そして3月になると隊長のM大尉は「振武集団の本部

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                          • 2 戦犯の最後 〜日独伊それぞれの〜

                             かつて或る高僧がガンに罹った。医者は勿論ガンとは云わなかったが、それらしい気配を感じてその高僧は「自分はこの通り仏門に生きる身だから、もしガンだと知っても何ら動じる事はない。だから本当の事を知らせて欲しい」と医者に頼んだ。そこで医者が真実を告げると途端にかの高僧は動転して見るも哀れに取り乱したと云う話を何かで読んだことがあるが、人間は死に直面すると平素窺う事の出来ない真実な一面をさらけ出すものだ。  さて第二次世界大戦における日独伊の最高指導者について、彼らの犯罪行為はさ

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                            • 1 創刊号に寄せて、思いつくままに 〜戦争の記憶を辿って〜

                              さて、何か書こうと思っても書くことがない。平凡な人間が平凡な事を書いても二葉亭四迷の様な才能でもない限りサマにならない。まあ特異な体験といえば陳腐だが戦争のこと位になってしまう。その辺から思いついたまま書いてみよう。  其の一、昭和20年5月の或る日の事、既に米軍に追われてマニラから東方の山へ逃げ込んでいたのだが、銃声が近づいて来たので、夕方ほら穴から出て様子をうかがうと米兵がうろうろしている。実際に敵を目の前にして、ふと見知らぬ人間同士が殺し合いをしている現実が何か奇妙な

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