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7 山中にて・それから 〜兵士のそれぞれ〜

前回の続き。
 米軍の総攻撃を受けて日本軍は列を乱して敗走した。その日本軍に米軍はあらゆる火力で追い打ちをして来た。今回はその後の特に印象に残っている事を書いてみたい。私が陣地を捨てて逃げた翌日かその次の日の午前中の様に記憶しているのだが、私は幅3メートル程で半分砂地になっている川で眠っていた。近くで砲弾が炸裂する音で目を覚ますと、頭の辺りを5、6人の兵隊が「ここは危ないぞ」と叫びながら走り去った。私が又ウトウトと眠りかけた時、再び近くで砲弾が爆発した。すると10メートル程離れた所にいた数人のグループが慌ただしく叫びながら動く気配を感じ、その内に「死んだ」と云う声を聞いた。辺りに砲弾が次々落ちていたが、私はあまりに眠かったので起き上がる気もせず「ええい、死んでもええわい」と思いながら眠り込んでおった。
私は戦争中「何をこんな所で死んでたまるものか」という心の支えがあったが、この時だけは死んでもええわいと云う気持ちを持った。そして極度の疲労は生への執着を無くするものだという事を知った。よく自殺した人について「死ぬ位なら何でも出来るのに」という事が云われるが、人間の心理はそんなものではない様だ。
ところでこの時部下がどうしていたのかとか前後の状況は全然思い出せないのに、川の流れ具合や木の茂みの風景なんかははっきり覚えている。

 それから2、3日後の様に思うが、平穏な道の傍で腰を下ろして休んでいた時、向こうから20名程の集団がやって来るのが見えた。ところがその先頭に兵団の参謀が居るので戸惑った。陣地を死守せよと云われていたし、夜襲を決行する命令も無視したし、こんな所で会うのは具合が悪い。しかし彼も確か「俺も最後はこれで戦うぞ」と云ってポケットから手榴弾を出して見せたという事を連絡に行った部下から聞いていたので、兵団本部も威勢のいい事を云っていたが逃げたな、とにかく、知らんふりをするのが良かろう。と、こんな考えが頭の中をかすめたので、反対側を向いて連中が通り過ぎるのを待った。ところが彼は私の横へ来た時、大声で「おゝ○○少尉!元気か‼︎」と一喝して笑顔で一瞥し、さっさと行き過ぎてしまった。「元気か‼︎」の一声で過去を瞬時に吹き飛ばした彼は厚かましいのか大人物なのか、何れにしても大物だ。
しかしこれと対比して思い出すのは野戦病院長である。どちらも職業軍人の中佐だったと記憶しているが、医薬品が無くなって病院の機能が果たせなくなった時、各自、自分の判断で身を処する様に指示して病院の解散を宣言し、自分は責任者として拳銃で自決をしたのである。どちらが人間として立派であるかは人によって評価は違うと思うが、私にはどちらとも判らない。

 その頃になると階級章を付けているのは将校と下士官位のものだったが、兵団長から『士気を鼓舞する為に全員一階級特進を命ず』という命令が伝わって来た。何を今更、それも勝手に逃げた連中に馬鹿げた事だ。それに私は内地に居たら4月1日に中尉になっている筈だった。とは云え皆の心から階級の意識が消えていた訳でもなかった。
以前近くに居た顔見知りの30才位の兵隊にバッタリ出会った。彼は確か一等兵だったのに軍曹の階級章を付けていた。一寸照れた顔をしたが、私は何食わぬ顔で無事を喜び合って別れた。ずっと後、米軍の収容所で食糧が極端に少なくなって空腹に苦しんだ事があった。その時、ベッドで横になっていると誰か枕元へやって来たので見ると彼だった。小声で「これどうぞ」と云って紙包を置いて逃げる様に去って行った。開けてみると一キロ以上もあるチーズの塊が入っていた。多分あの時の事を恩に着ていたのだろう。そして炊事当番の時にでも取って来たのだと思う。義理堅い男だった。私も大いに助かった。

 そうかといって、兵隊が下士官や将校を殺しても別にどうと云う事はなかった。その一つ。私の小隊がたむろしていた所へ、或る日一人の兵隊が顔を腫らして逃げて来た。聞くと彼は下士官と二人だけになってしまったのだが、その下士官は昔ながらに彼をこき使って気に入らぬとすぐに殴り、今も殴りだしたから助けてくれ、と云った。すると私の部下の元気のいい兵隊が4、5人「よし、やっちまおう」と云って銃を手に彼を連れて出て行った。間もなく一発の銃声が轟きわたった。やがて連中が帰って来た。ぐるっと取り巻いたら、事態を直感したのだろう。下士官はガタガタ震え出したそうだ。

 6月の中頃だったと思うが、仙台飛行学校で同期だったMという中尉にバッタリ出会った。彼がどんないきさつでこんな所へ来たのか聞いたかどうかも忘れたが、部下は二人だけになっていた。ところがそれからの彼は私につきまとって「君、俺達これから一体どうなるんだろう」とか「こんな事してていいのかい」とかそんな事ばかり繰り返し、不安でじっとしておれない様子だった。
今考えると彼は強度のノイローゼにかかっていた様だ。あまりしつこいので私はいつも最後は「いい加減にしろ!」と怒鳴って別れた。彼の部下も「うちの隊長殿には困るんです」とこぼしていた。そして何時の間にか私の隊の者と行動を共にする様になっていた。私が彼の部下をとるとでも思ったのだろうか。或る日彼が私の方へ来るのを見て、何か異様なものを感じた。案の定、何と云ったか忘れたが、私をなじるや否やサッとピストルに手をかけた。私は反射的にそのピストルを持った手に飛びついた。二人は一丁のピストルを掴んだままもみ合った。その時の私の心臓の激しい鼓動は今もはっきり思い出す。
しかしすぐ私の部下が5、6人とんで来てピストルを取り上げ、彼を取り押さえてくれた。その瞬間私は無意識に彼の頭をゲンコツで力一杯殴りつけていた。両腕をつかまれた彼の血の気の引いた顔、青筋の立った額に絵に描いたようなタンコブが出来ていた。私はこの時の事を思い出すと、何故か人間の生の営みの全てに無性に哀れさと云うか悲しさを覚えるのである。それから私は彼に馬鹿者!とか出て失せろ!とか、そんな事を大声で怒鳴りつけた。私の勢いにおされて彼をつかんでいた部下が手を離すと、彼は近くの自分の小屋へ帰って行った。
ところがそれからである。私の部下が皆集まって来て「彼を生かしておいたら隊長殿が危ないですよ、やってしまいましょう」と云い出した。私も不安だったが、昔馴染みだからためらいを感じた。私の部下は交替で銃を持ってずっと監視していてくれた。そのうち日が暮れて来るし部下も「自分がやりますから」と云って今にも出て行きそうな気配だったが、私の知り合いだからだろう、勝手な事はしなかった。しかし私も心が動きかけた。その時、パンと音がしたので行ってみると彼は手榴弾で自殺していた。

 彼が私を頼って来た時、私は何時も「なる様にしかならんよ」と云って突き離した。今思うと「戦争はもう直ぐ終わるから頑張れよ」と励ましてやれば良かったのにと後悔し、心が痛むのである。
いや、考えればゾッとする事や後悔する事は山ほどある。
      
(第7号 昭和五十三年・1978年 七月二十日発行)

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