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ショートショート「お辞儀」

工事現場警備員の吉岡はこの道30年のベテランだ。6月なのに真っ黒な腕には骨の輪郭が浮き出ている。今年初の猛暑日であることを感じさせないほど人で溢れている吉祥寺が吉岡の仕事場だ。
信号待ちの人々が吉岡を取り囲む。信号が変わる。人がうじゃうじゃ動き出す。
「足元お気をつけください」頭を下げてはヘルメットのずれを直す。そして、また頭を下げる。
スマホに視線を落とす女子大生。サッカーボールを抱えた我が子を目で追う父親。井の頭公園の方を指差す彼氏。互いにじゃれ合う男子高校生。
人が通るほど、吉岡は独りぼっちになっていく。

木村は1歳の娘を連れて買い物に来ていた。胸元には娘の寝顔、背中にはアディダスの黒いリュック、左手にはGUとニトリ、右手にはRF1の袋を持っている。
近くのサンマルクカフェに入るとオレンジジュースのSを買った。空いている席を見つけ、置いた荷物を避けるように蟹股で椅子に座る。オレンジジュースの写真を撮って夫のLINEを開く。が、何もせずに閉じた。ゆっくり揺らしている体とは対照的にオレンジジュースがものすごいスピードでなくなっていく。
ネイルがはがれた爪を見つめていると娘が起きた。娘にオレンジジュースを飲ませながら身支度を整える。娘がストローからプイッと顔を背けると木村は残ったオレンジジュースを飲み干した。店を出ると花屋の前を三往復した。何も買わなかった。
木村が信号待ちをしていると娘が右側を見て、ニコニコしていた。視線の方を見ると真っ黒に日焼けした70歳くらいの警備員のおじちゃんが「寄り目」をしている。娘につられて木村の顔もほころぶ。

「ありがとうございます」
「お母さんも暑い中大変だね。それ重くない?」
「これですか?」
「うん。信号待ってる間だけ持つよ」
「いや、悪いですよ」
「いいの、いいの」
「すいません。じゃあ、これだけ」

おじちゃんは細い腕で荷物を持ちながら「寄り目」を続けている。娘は飽きてもう笑っていないのに。
信号が変わった。荷物を受け取る。娘の手を取り、おじちゃんに手を振る。

「足元お気をつけください」
「ありがとうございました」

木村はお辞儀して横断歩道を渡り始めた。

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