共感的映画論❍映画「ルーという女」

 この映画は、主人公の女性ルーが、自分の過去を振り返るというかたちで、ファッション・モデルだった頃の日常の様子を、その私生活も含めて描いている。
 断片的な映像をピースとして使って、完成が用意されていない映画というパズルを、手さぐりに組み合わせていくように。
 監督のジェリー・シャッツバーグは、この作品の後、当時まだ無名の俳優だったアル・パチーノを起用して、映画 『 哀しみの街かど 』(1971)、 続いて、『 スケアクロウ 』(1973)を監督している。

原 題  puzzle of a downfall child (1969/アメリカ)
主 演  フェイ ・ ダナウェイ  faye dunaway
脚 本  エイドリアン ・ ジョイス   adrien  joyce
監 督  ジェリー ・ シャッツバーグ jerry schatzberg

 写真家出身の監督は、写真を撮るように、映画の撮影カメラを使って、そのカメラの前でポーズをとる主人公の姿を、時折カメラのシャッターを切るように 細切れに静止させてとらえていく。

 映画の映像の中で、ファッション・モデルの主人公に向けられる写真カメラの後ろから、この映画の撮影カメラが、さらにその画面の後ろからは、映画を観ている観客の視線が、それに重なり合うような構図になっている。

 主人公ルーは、写真カメラの前で、フラッシュの眩い光を受けて、いきいきと全身を躍らせ、自分を輝かせる。 自分に向けられていると感受する、誰のものでもない<注目>という視線の中で。

 おそらく、この<注目>という視線は、モデルという仕事を離れた彼女の私生活にまで及んで、撮影カメラがとらえるルーの姿には、彼女がどこに行ってもそのまわりの空気の中にはその視線(カメラ)が置かれていて、いつもそれに見据えられているような、それを強く意識しているような素振りが見てとれる。
 いつも目に見えないこの<注目>という視線を指先まで意識しながら、さらに、私生活の日常的な、 ”なにげなさ”や”自然さ”といったことまでを意識して、ポーズをとっているような。

 そして、彼女にも見えない、この<注目>という視線と彼女を取り囲む人工的な眩い光は、彼女がどこにいても、「カメラ」(モデルという非日常的なの存在の自分)を意識させ、彼女にポーズを強いていた。
 ただ、そのポーズは、彼女にとっては単なるポーズではなかった。そこには、自分がこの世界に存在していることの確からしさといった彼女の実感が滲んでいた。願いのような切実さが。 

 ひそかに抱えるトラウマのためか、ルーは実生活で、他のモデルたちと同じように自分を見せつけるように自信ありげに振舞いながらも、その自分の現実の輪郭と自分の内面の現実との間に、ズレや異和のようなもの抱えている様子を見せることがあった。
 それが、彼女に気おくれのようなものをもとらすのか、彼女はいつもどこか落ち着かない様子で、不意に周囲に苛立った態度をとらせた。

 ルーにとっては、おそらく、その身を躍らせるようなモデルという虚構の世界においても、そこで自分自身となったような実感、<虚構>の実感といったものも、まわりの眩い人工的な一瞬の光のようなものであった。自分という存在が、完全にその”自分のポーズ”(虚構)と重なり合うことはなかった。
 そしてそのことは、彼女に自分を「本来の自分になりきれない自分」といったように、現実の生活の中で自分を意識させ、イメージさせることとなって、彼女はその苛立ちをつのらせることとなった。

 こうした虚構と現実のどちらにおいても、”虚構の自分”にも”現実の自分”にも、「思うようになりきれない」といった彼女の思いからこぼれ落ちる自分に対するどこか欠落の感覚の滴りは、おそらく、彼女の内面にしだいに大きくひろがり、現実の”自分”として重く蓄積されていった。
 そして、彼女の振舞いが周囲にまで漂わせる、彼女に向けられた<注目> の視線と人工的な光は、常に日常と非日常の点滅 (反転)を繰り返し、その絶え間ない気分の入れかわりによって、彼女を精神的に不安定にしていく。

 主人公・ルーは、おそらく、ファッション・モデルとして、写真という ”虚構”と”現実”(日常生活)を生きる自分、さらに、その二つを行き来するように二重の生を生きる自分を使い分ける、”もうひとつの自分”といった、三つの自分を生きていた。生きなければならなかった。

 ルーに身体的に現れる、この三者(虚構、現実、その間を行き来すること)の姿の重なりを、映画の撮影カメラが捉えるという、さらにもうひとつの虚構の重なりの構図はまた、現実という<虚構>であり、虚構という<現実>であるといったように、彼女の内面でころころとその意味合いが入れかわるこの世界をその境界を行き来する彼女の内面の不安や自分との異和といったものが彼女にもたらす、その危うさの、その足元から崩れてしまいそうな感覚といったものが、その実生活においてももしだいにあらわになっていく様子をその奥に浮かび上がらせる。そのレンズの奥にとらえたルーの様子の表情や素振り、台詞などを、その場面にはめ込まれたパズルのピースのようにして、その場面全体の現実とのリアルな異和の気配を。
 写真カメラの前でポーズ をとる自分と、現実の日常を生きる自分と、それらの重なりとズレによって彼女が追い詰められているような微妙な変化の様子を追いながら。

 同じことは、女優を仕事とする主人公ルーを演じたF・ダナウェイ自身にも言えるかもしれない。彼女の場合は、女優としていろいろな役を演じるため、少し覚めている印象を受けるが。
 そこでは、撮影カメラの前で演じる自分(女優のダナウェイ)と、実生活の中の自分(女優ではないダナウェイ)、さらにそれを”自覚的”であるかのように使い分ける、三人目の<自分>の存在が想像される。

 ルーという女性の映像に見え隠れする、こうした、「三つの自分の存在の重なりと、そのズレ(異和)の重なり 」に、女優(ダナウェイ)の内面の「三者の重なりと、そのズレ(異和)の重なり」が重なり合う姿を、映画の撮影カメラが、もうひとつの外からの視線のようにとらえている。

 撮影カメラのとらえる主人公ルーという女性の輪郭の奥へと交錯するように深まるこの虚構と現実の重なりの重なりは、カメラ(写真、映画)の前でポーズをとるルーを、いわゆるモデルというもののイメージから立ちのぼる虚像の向こうに、かえってリアルな人間という存在として浮き立たせる。

 そして、この主人公の”リアルさ”はまた、虚構と現実のイメージがきれいに重なり合うような<現在>に至るまでに、おそらく私たちの内面から消えていった、虚構と現実の境目(異和)の痕跡といったものを、記憶のように、生々しくよみがえらせる。

  

               

  


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