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ファストフード店にいって豊かさを考えた

今日は用事で街に出ていた。

ちょうど昼の時間だったので近くにあった某ファストフード店に入って昼食をとることにした。

メニュー表に目を通し、注文する品を考える。

カウンターに言って注文をする。

会計を済ませると、「ご注文の品、お席までお持ちしますね。」と言われ番号札を渡されたので、席に着く。

すると誇張表現ではなく、十数秒程度で注文した品(バーガー、ポテト、ホットコーヒー)が提供される。

あまりの早さにびっくりした。
”ファスト”フードという名前に負けない提供速度だ。
もはや何を注文するか考えていた時間の方が長い。


このようなスピードで食事を提供してもらえるまで企業側には相当な努力があると思う。
詳しく知らないので分からない部分も多いが、材料の調達や加工、各店に備えられる設備一つ一つなど数多くの部分で様々な工夫、技術が用いられていることは素人にも想像がつく。

さて、そういった企業努力の末このように我々消費者はお金さえあればすぐに食事にありつけるようになったわけだが、これは本当に”豊か”なのだろうか。

そういう疑問がふと沸き起こった。



普段自分は自炊をするのだが、よほど元気か時間に余裕のある時でなければ多少「面倒だな」とか「時間をかけたくない」と思っている。

経験から、食事の質を下げた状態が続くと自身の活力にも大きな影響が生じることを理解しているので、なるべく手は抜かないようにしているが、食事の用意に時間がかからないのはある意味理想的に感じていたわけだ。

しかし実際スピーディに、一分とかからず食事が用意されてみるとどうだろう。



多くの人がスマホを見たり、パソコンを開いたりして食べていたりする。
(もちろん会話を楽しんでいる人々もいるが。)

自分もその中に混じって、物の数十秒で用意された食べ物を黙々と食べている。


なんとなく、現代的な素早い消費社会の虚ろな空気感というのを感じざるを得なかった。




しかし一方でこうも考えた。

このように情報、時間、モノが高速に消費されていく現代において、一定の時間をかけて自分の手で食事の用意をするという行為は貴重かつ、そういった消費から一歩引いて、自分を見返す良い機会なのではないか、と。

今度から自炊にかける時間や労力をあまり面倒だと思いすぎず、むしろ自分の手で自由にやれるいい機会だと思って、前向きに取り組んでみようと思った。
(あまり続けられる自信がないけど)





…とここまで書いて見返すと、ファストフード店をやたら嫌っているような印象を与える文に仕上がってしまった。

補足させていただきたいのだが、ファストフードは嫌いなわけではない。
バーガーとかポテトはむしろ好きだ。(健康が気になるからしょっちゅうは食べないけど)

「素早く食事が提供される」というのも、そういう選択肢(時間をかけずに食事をとれる選択肢)が生まれている時点で明らかに選択肢の豊かさは増えていると思う。


「虚しさを感じた」というのはそういう技術の恩恵にもたれかかってしまって、情報、時間、モノの”高速な消費に慣れてしまうこと”に対してだと思う。



…………………



要はバランスの問題なのかと思う。

毎日自炊では(少なくとも現代においては)時間も労力もかかりすぎる。
一方毎日外食では、栄養バランスも失われるし、スピーディーに提供される食事(高速な消費)に慣れて、本来の豊かさやありがたみ(というと説教臭いけれど)を失ってしまう。

ただ外食のし過ぎを禁止するルールなどないのだから、このバランス感覚、食の豊かさを保てるかは個人の問題であり、またどうするのも個人の自由だ。


だからこそ、これらの問題にはきちんと意識的である必要があるのではないかと思う。






色々書いたが結局家庭科の教科書にでも書いてありそうな内容になった。
いかにも難しいように書いたが、ただの「食育」という概念の再発見なのであった。




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