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不信感


 自分が自分でないものによってコントロールされるのが嫌でした。なぜなら、自分を殺さないといけなくなるからです。


あったもの、取り戻したもの、見失ったもの

 人の言うことは聞かないといけないと思っていました。決めたルールには従わないといけないと思っていました。間違ってはいないし必要なことでした。しかし僕にはそれ以外がなかったのです。それ以外、例えば目標、例えば好き嫌い、例えば努力、例えば癒し、そういうものを求めていました。求め続けた先で、前に持っていたものを見失いました。

自分を理解する

 結局、人生どれも必要なものなのだと思います。色々なものを捨てて一つのことに集中することは大事だし、僕自身にもその成功体験がありますが、それでずっと上手くいくとは限らないのですね。
 つまり、環境にただ流されるのではなく自分を理解してコントロールできるといいのかなと思います。

人を信頼する

 僕が大学に入学してすぐのとき、ひとり親の母親が失職しました。特定を避けるために詳しい記述は避けますが、背景には介護のため他の人より休むことが多かい非正規雇用の立場だったため、管理職に厄介払いをしたいという背景があったということで、自己都合退職に追い込まれました(地方公務員です)。
 もちろん休むのも有給の範囲内でしたし、仕事の質も悪くないはずだったのですが。しかも一年契約のはずが元々半年間の契約だったことも後からわかりました。
 当面は母親の貯金を切り崩して何とかすることになったのですが、奨学金の情報を集めて回って書類を書いて前年度の年収的に落ちて、ということを繰り返しているうちにコロナ禍の孤独感も重なり、何で大人の言うことをきかないといけないんだろう、自分のやったことが正当に評価されるとも限らないのに、とか思い始めました。
 人の言うことを聞いているだけでは後悔する、自分がやることは自分で決める、人の言うことは当てにしない、とこのとき強く思いました。大学の先生は、本当は学生に発破をかけるためだったのでしょうが、嫌味っぽいことを言う人もいて、当時はそんな人たちがみんな敵に見えました。この人たちはあちら側の人たちである、というふうに。
 けど僕は前述の通り自分で決めて動く経験がなさすぎたので、とにかく空回りしました。

 10代の頃は理屈で作り上げた外面を貼り付けて生活していたので、自分を評価してくれる人は作られた自分を評価してくれているだけだ、と思っていました。批判されてもあまり傷つかないというメリットもあったのですが、内面はぽっかり穴が空いたようになり外面と内面に齟齬がないようにしなければと思うようになっていました。そのため、相手を騙している感覚がありました。僕の自信は、この自己完結性に依存していたような気がします。

 今になって思うのは、人を端から当てにしないのではなく、許せないところや気に入らないところがあってもこの部分は信用するとか、そういうふうに人を信用していくことが大事なのかなと思いました。
 そうすれば完璧な自分を演出しなくてもいいし、過度に人を警戒する必要もなくなるのかなと。まあけど色んな人がいるので、なかなか警戒心は消えないと思います。


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