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万葉集(萬葉集)【後篇】~和歌を味わう~

『萬葉集』所収の歌については前篇では雑歌、相聞、挽歌の三大部立てについて紹介しましたが、この記事では基本的な『萬葉集』の歌の形式「歌体」についてご説明いたします。そこから具体的に和歌を味わってみることにしましょう。


1,『萬葉集』の歌の形式


まず『萬葉集』には全四五七七首もの歌が収められています。そのうち比較的古い歌(巻一・一)雄略天皇の御製歌(天皇が御自ら御つくりになった歌)「籠(こ)もよ み籠(こ)持ち ふくしもよ みぶくし持ち この岡に 菜摘(なつ)ます子 家告(いへの)らせ 名告(なのら)さね〔……〕」の歌謡のように三・四・五・六・五・五・五・五と一般的な和歌の五・七・五・七・七のリズムとは異なる不定型なものもあります。これは五・七・五・七・七の和歌以前の歌謡とよばれる部類はそういった短歌のリズムをまだ整えていなかったからです。ここからわかるように『萬葉集』所収の歌謡の多くは五音と七音を組み合わせて作られています。

2,長歌(ちょうか、ながうた)


長歌は基本的に五・七の句をいくつも繰り返して作られます。古代の歌謡の代表的な形式です。記紀歌謡もおおむねこの長歌で歌われていますが、その多くは五・七の句に整理されてはいません。途中に三音の句が挿入されることで歌のリズムが引き締められ、荘厳さを感じさせます。長歌は平安時代以降になっても細々と作られ続けますが、歌人にとっては難易度が高いようで短歌体の和歌に取って代わられることになります。

3,旋頭歌(せどうか)


また五・七・七・五・七・七のリズムを繰り返す歌体のことを旋頭歌といいます。この歌体は比較的新しく整備された形式です。柿本人麻呂が中心となって流行させたと言われています。

4,仏足石歌(ぶっそくせきか)


仏足石歌は短歌体のリズムの和歌体の最後に七音の句で締めくくる歌体です。奈良の薬師寺に仏足石が現存しておりそこに彫り込まれたものが仏足石歌と呼ばれています。
次節ではこれらの知識を踏まえて和歌を味わうことにしましょう。

5,和歌を味わう(越えられぬ生と死の隔て)


「客死」という言葉があります。ただ死ぬのではなく、故郷への憧憬を胸にしながら遠く離れた地に没する事は万葉の時代の人々にも深い悲しみを与えました。そうして挽歌で歌われたような流離の憂い、別れの悲しみは人類に普遍的な悲しみでした。むかし手持女王(
たもちのおほきみ)という女性がいました。彼女については謎が多く、河内王について『日本書紀』には「持統天皇八年夏四月の甲寅の朔にして戊午に、浄大肆を以ちて、筑紫大宰率河内王に贈ひ、幷せて賻物を賜ふ。」と記載されています。持統天皇八年は西暦では六九四年にあたり、賻物とは無くなった人に贈られるものであることから、大宰率として筑紫に赴任した河内王は六九四年頃にその地で薨去したものと考えられます。恐らく手持女王の歌もこの前後で詠まれたものでしょう。

6,河内王を豊前国の鏡山に葬りし時に手持女王の作る歌三首

萬葉集から引用
大王の 和魂あへや 豊国の 鏡の山を 宮と定むる(巻三・四一七)
訳:河内王の御心に叶ったのか 豊国の鏡山を宮居とお定めになったとは。

契沖が『万葉代匠記(精撰本)』において「手持女王ハ河内王ノ妻ナルヘシ」と言っていることから、この歌群で歌われる河内王と彼女との関係を想像するほかありません。ともかく、愛する人を失った彼女は、恐らくすがるような気持で天照大神の天の石屋の神話に思いを託し、続けて次のように歌っています。

萬葉集から引用
豊国の 鏡の山の 岩戸立て 隠りにけらし 待てど来まさず(巻三・四一八)
訳:豊国の鏡山の岩戸を閉めきり隠れてしまわれたらしい幾ら待ってもお出でにならない。
岩戸割る 手力もがも 手弱き 女にしあれば すべの知らなく(巻三・四一九)
訳:岩戸を破るほどの手力があったらいいのに か弱い女であるのでどうにもならない。

7, 手持女王の歌の鑑賞


ここで彼女は自身を天手力男神に喩えています。石戸に隠れた天照大神を呼び戻すために天宇受売命のような蠱惑的な魅力を以って誘い出そうとするのではなく、手力をもって強引に生の世界に引きずり出そうと試みる点に、並々ならぬ愛惜と決意が看取されます。しかし、このような死者の復活は神話においてのみ許されるファンタジーであり、神話世界は現実を超越し得る世界にほかなりません。神々は生と死の世界を行き来することが出来るほど自由だったのですが、我々にとっての死はつねに残酷なまでに不可逆的な現象です。
古代人だからといって神話の内容をそっくり信じていたわけではなく、上の歌を見てみると神話になぞらえて死者の復活を希う手持女王は、第五句に「待てど来まさず」「すべの知らなく」と嘆いています。ここで神話なら越えてゆけるはずの生と死のラインが絶対的な隔てとして彼女の前に現れています。夫の死が不可逆的であることに気づくことによって神話の世界と現実世界とが区別されるべき存在であるという現実が彼女に示され、抗うことができないその無力さに絶望しているのです。それにもかかわらず、神話と現実の区別を発見するこの歌群は記紀編纂前とはいえ現代的感覚を持っているといえるのではないでしょうか。

【参考文献】
・坂本信幸、毛利正守『万葉事始』(和泉書院、一九九五年三月三〇日)
・小野寛、櫻井満編『上代文学研究事典』おうふう、1996年5月25日
・小島憲之、木下正俊、東野治之校注・訳、新編日本古典文学全集6『萬葉集①〈全四冊〉』小学館、一九九四年五月二〇日

執筆者プロフィール:

筆名は枯野屋(からのや)。某大学大学院文学研究科博士課程後期に在籍中。日本思想史を専攻。noteにてオンライン読書会の国文・日本思想史系研究会「枯野屋塾」を主催しています。( https://note.com/philology_japan )。

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