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S I N G A - "繰り返される日常"から、"一新され続ける日常"を生きる

マインドフルネス・ウェルビーイング・トランステックといった、現代的なカタカナ言葉で、人間の精神・意識といったなかなか捉えどころのない部分への科学的探究、宗教性を排したよりテクニカルなアプローチが、この10年で一気に増えたように思われる。

これらの傾向は、グローバル企業と呼ばれる巨大なテックカンパニーGoogleやマイクロソフト、Appleなどが、会社の福利厚生的な角度からも、瞑想などの実用的な側面を取り入れてきたという流れもあるだろう。

多くの人が感ずるが、インターネットという技術を基盤にした現代のテクノロジーの多くが、地球上の交感神経的なものであるとしたら、そのような仕事を行う人々もまた、交感神経が強く働き、結果的に体に不調をもたらすような事態が発生しやすい。

そのようなことからも、このような仕事に従事する人の間で、より副交感神経的な、リラックス・安心・真の休息をとるための必要が、ある意味で、切迫した現実問題として浮かび上がってきたことによって、これらの知恵を導入せざるを得なくなった、という見方も可能だ。

そうした社会的な情勢において、こと日本という国においてみると、本来この国の文化的な基盤といては、坐禅・瞑想などは、親しみのあるものであったが、第二次世界大戦下で、個人の尊厳を踏み躙る最悪な形で、大和魂といったすり替えられた大我を生きることを洗脳された時代の影、あるいは、90年代のヨガや東洋哲学の神秘というベールを被せたカルトの事件によって、そうした東洋の神秘的なものへの、嫌悪あるいは疑念というものが、深まるばかりであった。

そのような状況下でも並行して、こうした智慧の真髄が、鈴木大拙・ティク・ナット・ハンなど、東洋的な知恵を宿し同時に二つの文化・言語を橋渡しする人物や書物を通じて、一度海を渡り、西洋的な文化によって噛み砕かれ、一般化・抽象化などのプロセスを経て、濾過されて、宗教・神秘といった印象を排したマインドフルネス・PNSE・ウェルビーイングなどに変貌してきたのだろうと想像する。

そして、現在において、コロナ禍を経て、日本語の文化圏として日本という地域を見たときに、私たちの身体の健康や、社会の健全さのようなところへも、マインドフルなあり方が寄与することを、未だ数値化できずとも、感覚的に理解して、実践している人々が、年代・分野によらず存在していると思う。

何を成すのか・するのかというDoingの視点でなく、どのように在るのかというBeingのあり方の重要性が、幾つもの異なる文脈で語られている。

そのような時代的な要請も、少なからずこの『S I N G A - 歌う瞑想 - 』をスタートした時によぎるものではあった。

同時に、しかし、この体系化され、ある意味でメソッド化され一般化された、マインドフルネス等に対して、私自身の感覚で言えば、今だ、これまでの在り方をなんとか続けるための装置のように見えて仕方がなかった。

AIが誕生し、凄まじいスピードで実装されていく21世紀のこれからの人類が迎えるであろう新しいフェーズにおいて、たかだか、交感神経の過度な活動を鎮め、しかし再び、競争・比較・サバイバルが前提となった社会に戻って働く、生きる、という対症療法的なありようが、そもそも望む未来の風景であろうか?

ここで言いたいのは、そもそも競争・比較・サバイバルが前提となっている社会に対して、そうではない新しいレイヤー(共創・融和・全体)を生きる人が増えて、そうした文化が醸成されていく必要があるということだ。
(もちろんそのような場・文化は、世界中に点在しているが、あくまで社会のオルタナティブな選択肢にすぎないとされているように感ずる)

日本において、現時点で問題とされるうつや自死、がんや生活習慣病といった社会に蔓延る病、あるいはSNS上の誹謗中傷や過度な炎上のような現象の背後にあるものを、何とみるのかが、とても大事である。

これらの現象として異なる一つ一つの問題は、現在の社会がもたらす思考の癖・神経症的な偏り・古い慣習によってもたらされるストレスの社会的な現れである。

これらは、濃淡があれど、一人一人の個人の体験としても起きてくる。表面的には異なる事象が、無限に出てくるので、一個一個のケースについては触れないが、私たちの認知の歪み・思考の偏り・ものの見方が、こうした事象を現象化させている。そのことに気づくという視点が、瞑想やマインドフルネスに含まれていることを指摘しておく。

気づかない限り、それら問題を生産する"在り方"そのものが人間の中に残る。ルールや仕組みなどによって解決しようとする外的な圧力は、むしろ火に油を注ぐ場合がある。
表面的に問題が消えても、全く異なる出口から、それらの問題のエネルギーが必ず表出してくる。統計的なエビデンスとしては、良さように見える策であっても、その現象と全く関わりのない、観測不可能な場において、それらの問題が、形を変えて出現するだろう。(その関わりについて私たちは、ほとんど測定する術を持たないからこそイタチごっこは終わらない)

また、常識や社会的な風潮、消費的な活動の促しなどによって、抑圧される形で、蓋をしたりいっときのガス抜きをしたところで、同じ問題が、個人としても社会としても立ち現れる。

これが輪廻だ。

ここで少し飛躍するが、この輪廻から外れるために、私たちは転生する必要がある。

これは、もちろん比喩的な意味においてであるが、体験としては、一度死んで生き返るということである。

本来、この死んで生き返るというのは、毎日眠りながら、自然とやっていることである。

起きた瞬間、新しい朝が始まり、未だかつてない光の雫が、太陽を通して私たちに降り注いでいるにもかかわらず、『また同じような日々が始まる』と、思考が目覚めていくるに従い、思い込むのである。昨日の記憶が戻り、習慣があなたの周りの、"本当は"、一新され続けている世界の感覚的な情報に瞬く間に蓋をしていく。

そしてほとんどプログラムされたようにして、同じ行動をとり始める。

同じ行動は、結果的に同じ経験を生み出し、同じ感情を味わうことになる。
そして、翌朝、『また同じような日々が始まる』と思考するあなたの脳内のネットワークはさらに密に、強固になっていく。
その強固になったネットワークは、ほとんどあなたの性格、気質として機能し始まることによって、そこに仮初のアイデンティティすら生まれる。

その仮初のアイデンティを生きることは、もはや仮想現実に生きていることに他ならない。

あるいは、みっちりと閉じられた培養された実験室の部屋の中だ。

ここに固定化された一つのパーソナリティという迷信が生まれ、あなたは、自己に限界という名の壁を構築し始める。

こうして、人生から挑戦と好奇心と喜びが失われていく。

子供時代、あるいは成長の過程や、社会に出てから、無意識に埋め込まれ内部化された思い込みという名の脳内神経ネットワークが、アップデートされぬままにあなたの中で機能し続ける。

ここまで書いてきて、非常に単純化しているが、しかしそれほどまでに、私たちの内部のシステムはとても単純にできているのだ。

これは脳の学習システムであり(個人にはいたしかないことである)、人間にもたらされた一つのバグのように見える働きは、しかし、見方を変えれば希望であるのだ。

というか希望はここにしかない

つまりこれらの固定・習慣化された仮初の自己の在り様は、いくらでもあなた自身で更新・創造することができるということだ。

この可能性に気がつくことから、私たちの内的な旅が始まる。

今、この文章を読んで、腹のあたりで疼くものがあると感じたら、その疼きが火種となるから、大事にして欲しい。

先にいった死んで生き返るというのは、この仮初の固定化された自己、
古い思考・信念などによって内部化された脳内ネットワークを構築していたニューロンがその役目を終えて死んでいく過程のことを指している。

時に、その死のようなものが、眠っている夢の中で、象徴的に現れることもある。あるいは、ほんの数分に満たないような深い眠り、一切の夢を見ず、しかし、とてもとても長い時間眠っていたような気がする爽快さと不思議さを伴った目覚め、そうしたさまざまな体験があり、それらは「自由」という感覚を強く伴う

これらが起きていく時、実際に新たな脳内ネットワークが生まれ、人は、新しい視座から現実を眺め始める。過去の自分から解き放たれ、全く新しい地点に立っていることにはたと気がつく。

そして本来、人間は毎晩眠りに落ちながら、生まれ直しているほどのことが起きていることに気がつき始めるのだ。(さらにいえば、一瞬一瞬、この世界は死に生まれている。色即是空の世界に入るので今は深い入りしない)

さて、そのような”繰り返される日常"から、"一新され続ける日常"を生きるのが、マインドフルネス・ウェルビーイング・トランステックの、本来の着地点であると私は考える。この心模様は、全ての人が、子どものころに体験している。よく芸術家や、禅師が、「こどものような心」と称する境地が、これである。

私たちは、しかしただ単に子どもに戻るのでないこともここでは強調しておく。

「大人でありながら子どもである」という名付け用のない新しい状態になるのだ。

ただの子どもであることと、何が異なるかといえば、「子どものような心」に気がつき見守る眼差しが、あなたの中にあるということだ。この眼差しは慈悲・思いやりとも、呼ぶことができる。

子ども時代、特に7歳くらいまでは、子どもである意識状態を、外から眺めることはなかった。それは脳の発達と関わる部分なのだろうと想像する。

いずれにせよ、この状態が、深まり、大人でありながら赤子というのが、悟りのありようである。

では一体、内部化されたうちなる檻を無化して、新たに自己を更新していくために何をしたらいいのだろう?

その方法において、瞑想や呼吸法が、有効なのである。
この有効性の証明については、ここで割愛するが、最近ではかなり科学的な知見も増えてきた。(そのおかげで、マインドフルネスやトランステックも普及してきた)

しかし、こうした効用や、目的意識というものが、時に話をややこしくするので、実際に体験を深めていくことが大事だ
いくら知識で、それが効くという情報を集めていても、やらない限りは意味がない。

瞑想を通して、思考のおしゃべり(モンキーマインド・自動思考)に気がついて、その思考の声と自分自身を同一化しないことで、習慣的に湧き上がってくる無意識の思考を少しずつ無化できる。

おすすめの方法に「自動思考に気づく」というネドじゅんさんの方法がある。

これによって、少しずつ、反射的に起こる思考にひきずられて、過去の嫌なことや、未来の不安について過度に捉えることが減る。それは結果的にそのような思考によってもたらされるネガティブな感情も起きなくなることを意味する。

これだけでも、体感的に、かなり楽になる。

これが起きるカラクリは、私たち人類の進化と脳の発展によるごくシンプルなものだ。

動物たちを例に出せば、ライオンに追いかけられるシカは、危険を察知したら一気に交感神経にスイッチが入り、全身に緊張が走り、逃げるための状態になる。そして、逃げ切って安全地帯に戻ると、またムシャムシャと草を食べ始め、一気に普段の状態へと戻る。

ポイントは、シカはさっきまで追われていたことを"思い返さない"のだ。あるいは、2ヶ月前には、ハイエナに囲まれたなとか思い出さないのだ。

つまりストレス状態は、逃げている時だけで、それ以外の時は、落ち着いた状態で、調和を取り戻すのである。

これらがほとんど自動的に行われるから、動物たちは健康さを保てる。

しかし、人間は、この逃走状態のような交感神経優位な状態を、その体験を思い起こしたり、起こってもいない未来の不安や心配を想像することでも、身体の反応として起こしてしまえるのだ。
ここが、厄介なところだ。
古代において、自然界を生き抜く時に、このような危険察知と、予測することで回避するという、能力が発達し、そのおかげで今日まで命を繋いできた部分もある。

現代においては、もしその緊張状態を生み出すのが、ライオンではなく、職場の同僚や、あるいは上司など出会った場合、あなたは常に緊張状態に置かれ、さらに、本来安全である空間、家や、自室にいても、そのことを思い出すだけで、身体は緊張し、逃走状態に入ってしまう。

いっときこのような状態になることは致し方ないことであるし、ストレスそのものが悪いものではない。が、過度になると、つまり1日のうちかなりの時間をそのような状態で過ごすストレス耐性は地球上の生物にないのだ。

このストレス状態が続くことで、遺伝子の振る舞いへも影響が及ぼされ、結果的に病気に発展していくということも、現代の科学でも真剣に仮説化されてきている。

つまり、これほどまでに、思考がもたらす弊害の面は、パワフルなのだ。

病は気からというぼんやりとした格言は、よりはっきりいえば、この思いが、感情を作り、身体の反応にまで発展し、最終的に病の姿をとってくる。そのメカニズム自体はすでに直感され続けてきた。

だからこそ、勝手に上がってくる”思考”に気がついて、距離を取ることで、その連鎖から離脱することができ、それが結果的に身体感覚としてもストレス反応を減らせる。

瞑想の真髄も、まずはここにあると言っていいと思う。

一旦、外の環境から自らを隔離し、物理的には安心安全な場所で、静かに座る。雑念が湧いてくること自体に、いいも悪いもない。
だが、それに巻き込まれないということを"意識的"に行う。

思考に巻き込まれ、過去や未来に連れ去られているときに起こる身体の不快な感覚がわかるようになる。その感覚を掴んだら、日常の中でも、それを活かすことができる。身体もギュッとして、今ここで起きていない何かについて考えがぐるぐるしていたら、まずそのことに気がつき、呼吸に意識を向ける。

そのような行為自体が、瞑想的であるのだ。必ずしも瞑想の姿勢をとる必要すらここにはない。

気がつくということのパワフルさがここにある。

また、この思考に気がつき、そこから距離を取るというマインドの部分での実践と、身体を掛け合わせていくと体感がさらに深まる。

呼吸法がそれであり、その発展形が、私たちが行なっている『S I N G A - 歌う瞑想 -』である。

SINGAでは、野口整体からヒントを経て、身体の不随意運動・自発動を誘発していく”ゆらゆら"運動というものをおこなう。これによって、まず身体を緩め、副交感神経よりの状態を作っていく。

その後、ゆらゆらしたままに、音楽に乗って、声を出すというSINGAの核の部分に入っていく。

ここでは、「ん」という音からはじまり、その後「母音」あ・い・う・え・お、を発声していく。意味のない言葉を、数十分にわたり、身体に感覚を開きながら発声し続ける。

すると、普段の思考によって作られた仮初の自己の壁もまた、緩んでいく。

その緩んだ隙間から、光が、風が、入り込んでくる。これは、本当に、今実際に降り注いでいる光や風のことでもあり、同時に、うちなる世界においても固く構築された仮初の自己の壁に隙間が生まれて、新たに再編される予感が吹き込んできている状態でもある。

無心になって、母音を発声していると、そのうちに、普段の意識には上がってこない、生の感覚がやってくる。

この時感じるものが、本当のリアルであり、感性が開いた時に見える景色だ。

それが、私たちを生き返らせる本当の光だ。顕在意識が緩み、世界とのつながりを、感じられる時間というものが、実に未だ解明しきれぬ範囲において、私たちを一新させる。
この光は、降り注ぐ太陽の光でもあるが、同時にあなた自身の本体から放射される目に見えない生命の光である。

この光に出会い続けることが、SINGAの真髄である。

私たち自身のうちなる大日如来であり空、あるいは真我であり生命本体、(呼び方は本当に何でもいい)それがあなた自身であることを体験するのがこのSINGAの本質的意義である。

その体感を通して、この世界の実相に触れていく。

その感動・喜び・美しさは、言葉にならない。

が、あなたは、その体験を経て、言葉にならないその体感・体験を、この世界に、体現し始めるだろう。

神も仏も、崇拝する外的な存在としてあるのではなく、それは私たち自身であることを、理解をこえ、そうである他にありえないという状態が自ずとうまれる。

そんな風に、生きる人が増え、一つの文化的なつながりが醸成されていった時、先にいった、共創・融和を前提とした社会が当たり前になっていくのだと、私は信じる。

SINGA Founder Shinta
2024.8.23






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