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アラサーゲイが自分の人生に今思うこと

こんにちは。
アラサーゲイのしんたろうです。

記念すべき1記事目です。

ブログを書いたことがないので、読みにくい記事になると思いますが、最後まで読んでもらえると嬉しいです。

ゲイとして32年間生きてきた自分の生い立ちと、それを振り返って今思うことついて書いていきたいと思います。

アラサーゲイの生い立ち

自分は小学校低学年の頃に男性が好きであることを自覚し、女性とは付き合ったことがないゲイです。

ゲイとしての生きづらさの始まり

ゲイって正直生きづらくて、その生きづらさを少しずつ感じ始めたのは中学生になった頃からかなぁ。

中学生の頃、同じ学校の男の子と、じゃれあいの延長でそういう関係になったことがありました。

その子がうちに遊びに来て、そういうことをして2人ともそのまま裸で寝てしまいました。

父が「そろそろご飯やで」とドアを開けた瞬間に目が覚めて、僕は終わったと思いました。

父はその日は何も言ってこなかったんですが、次の日机の上に手紙が置いてあり、読んでみると「好奇心でやってるならやめなさい。でももし本当に男の人が好きなら、相談してきなさい」ということが書いてありました。

この時僕は、父に自分の秘密を知られた恥ずかしさと勝手にドアを開けられたことに対する怒りとで、手紙に対しては何も反応しませんでした。

この友達との関係は高校の途中まで続きました。(自分には彼氏のような存在でした)

高校生になって友達の間で恋愛の話が盛んになってくると、この頃から自分はノンケ(女性が好きな男性)の振りをして生きなければならないということを意識するようになりました。

ある日隣のクラスの男の子がホモだという噂が流れました。

その日からその子はホモとからかわれるようになり、何かしてあげれば良かったのですが、そんな余裕もなく僕は自分がゲイであることが絶対にバレてはいけないという恐怖を感じるようになりました。

修学旅行の季節になり、移動中のバスで、レク委員が決めたテーマに合う生徒を投票で決めるというレクリエーションがありました。

そのテーマのうちの「将来良いお父さんになりそうな生徒は?」というテーマで僕は3位になりました。

20人程度の男子生徒の中から選ばれたことが嬉しかったのですが、同時に自分はお父さんにはなれないということの虚しさが込み上げてきました。

この頃から自分は一人で生きて行くのだから、自分で自分を守れるように強くならなければならないと思うようになりました。

大学受験が始まって、勉強をほとんどしていなかったので全落ちして浪人しました。

浪人時代は死ぬほど勉強を頑張って、なんとか第一志望の大学に合格し、大学生活がスタートしました。


大学に入ると、もうそれはそれは恋愛の全盛期ですよね。
童貞だのなんだ言われて、結構恥ずかしい思いもしましたね。(男とは経験ありなんて言えないです…笑)

この時大学で仲良くしていた友達はあんまり派手なタイプではなかったので、大学で肩身の狭い思いをすることはありませんでした。

ただバイト先の同僚たちが結構やんちゃで、童貞なりにみんなについて行くのに必死でした笑

仲良くやっていたので、バイト自体は楽しかったです。

大学では勉強せずにバイトとダンスに明け暮れていました。

ゲイって何でか分からないんですけど、ダンス好きな人が多いイメージです。
アイドルとかK-POPとかも。(自分もK-POP好きです)

3回生になって、就活が嫌だったのと周りの友達がみんな大学院に行くのとで、自分も大学院に行くことにしました。

建築を専攻をしていたのですが、ろくに勉強もしていなかったし、そもそもそんなに興味がなかったので、この時しっかり自分と向き合っておけば良かったと、後になって後悔しました。

ただダンス以外にやりたいことも無かったし、この頃自己理解していても大した答えが出ずに結局迷っていたんだろうなぁと思います。

大学院でもろくに研究せず、バイトとダンス三昧。

就活はうまくいかなかったものの、大学からの推薦で大手ハウスメーカーに内定をいただきました。

社会に出てからの生きづらさ

社会人になり、賃貸住宅の施工管理職として働き始めました。

もーこれが大変で、現場所長として職人さんを束ねていかなければならないので、毎日ひぃひぃ言いながら働いていました。

でも職人さんも同僚もみんないい人ばかりで、仕事は大変でしたがうまくやっていたと思います。

職人さんに誘われた飲み会には、最初は行きたくなかったんですけど、何度も行くうちに本当に可愛がってもらい、プライベートでも遊ぶようになりました。

ただ男同士の集まりなので恋愛話になることが多くて、その頃26になっていた自分は童貞では流石に怪しまれると思い、この頃付き合っていた彼氏のことを彼女と偽って、その場を乗り切っていました。(これはゲイあるあるだと思います笑)

でもやっぱり写真見せろとか言われるとだんだん隠すのが難しくなってくるんですよね…
唯一カミングアウトしていた女友達の写真を見せて誤魔化していました。

あと辛かったのがキャバクラと風俗。
ゲイだと疑われるのが嫌で付き合いました。

女の人には興味がないのでお店に入った後自分がゲイであることを伝えて、1万円以上のお金を払ってただ喋るだけの時間に、何のために稼いでるんだろうという気持ちになりました。

自分がゲイであるがために、仲良くなった人にも嘘をつかなければいけないしんどさ。

更にこういう嘘をつき始めると、どの人に何を言ったかが分からなくなってきて、辻褄が合わなくなっていくんですよね。

自分を偽っていくしんどさが徐々に大きくなって、ゲイとしての自分の幸せが何なのかを考え始めるようになりました。

この先ずっと自分を偽って生きる人生。
一般的な幸せのイメージである、結婚して家庭を持って子育てをすることがない人生ってなんなんだろう。
自分は幸せになれないんじゃないかって、それがこの頃の大きな悩みでした。

今ってLGBTQ+の存在が、SNSやドラマによって徐々に社会に浸透しつつありますが、この頃はまだまだゲイにとって生きづらい時代だったと思います。(今も基本的には生きづらいです)

そんなこんなで自分の生きづらさの原因は、まだまだマイノリティに対しての風当たりがきつい日本にいることなんじゃないかって、そう思い始めるようになっていったんですね。

大学生の頃にいつか海外で生活してみたいという思いがあったのと、ゲイであることでしんどい思いをする世界から逃げ出したいと思い、マイノリティに理解がある場所で生活しようと留学を考えるようになりました。

ただ自分は結構慎重な人間なので、思い立ったら留学!ではなく、念のため帰国後の再就職も視野に入れて、建築士の資格を取ることを留学の条件にしました。(ストレングスファインダーの慎重さ3位です笑)

仕事をしながら資格学校に通い、この時も死ぬほど勉強しました。

勉強の甲斐あってなんとか初受験で合格することができ、留学の準備が整いました。

留学先はバンクーバー。

移民国家でマイノリティにも寛容で、夏も涼しくて過ごしやすい、あとはアクセントが強くなく綺麗な英語が学べると聞き、バンクーバーを選びました。

生きづらさからの解放

3年半続けた仕事を退職してバンクーバー行きの飛行機に乗り込みました。

バンクーバーに渡った時、もうこのまま永住して、誰かと幸せに暮らす人生もありかなと、そんな希望もありました。(相手もいないのに気が早い笑)

バンクーバーでは最初は語学学校で基本的な英語を学び、その後専門学校で初級編のビジネスについて勉強しました。

専門学校に行ってからは半年間フルタイムで働くことができるカリキュラムだったので、スタバ店員と空港のグランドスタッフのダブルワークで働き詰めの毎日でした。(英語になるべく晒されたいという思いで働きまくりました)

スタバではゲイであることをカミングアウトして働いているバリスタ、マネージャーが多く、そもそも出身地もみんなばらばらなので良い意味でそんなことを気にしていなく、日本で感じていた生きづらさを感じることはあまりありませんでした。

現地での生活にもだんだんと慣れて、留学してから最初の年末に家族で過ごすために一時帰国しました。

帰国すると母の様子がおかしく、家族に対してかなり攻撃的な発言をしたり、普段は外出しないのに年始の挨拶だと言って急に近隣の方に挨拶をしたり、挙げ句の果てに近くのバーで朝まで飲んで騒ぐといった行動をとるようになっていました。

昔から精神的に不安定なところがあり、後から診断されて分かったのですが、この時母は躁鬱病のひどい躁状態でした。

バンクーバーへの帰り便を遅らせ、母の様子を見ていたのですが一向に落ちつく気配がなく、母は入院することになりました。

家族と相談し、母のことは父に任せて僕はバンクーバーに戻りました。

バンクーバーに戻ってからはずっと母のことが気になり、自分だけ好きなことをしていて良いのかという後ろめたさを感じていました。

ただ、それまで抑えつけていた自分の気持ちに対する反動からか、今自分の人生を生きないと一生後悔することになるという気持ちがあったので、この時はそのまま留学を続けることを選びました。

そういえばバンクーバーでパートナーを見つけて幸せに暮らすという希望を持っていた僕でしたが、そんな人が現れることもなく、結局ブスは海外でもブスかと恋愛には絶望していました。(見た目至上主義の厳しいゲイ社会です笑)

そんな時、日本で数年前に知り合った韓国人の友達が気になって連絡をしてみました。

彼は2年間の兵役がもうそろそろ終わるというタイミングで、終わればバンクーバーに遊びに来るということを約束してくれました。

久しぶりに会えることを楽しみにスタバと空港で働きまくり、いよいよ彼がバンクーバーにやって来きました。

彼が空港に着いた時僕はスタバで働いていたので、お店まで来てもらうことになりました。

近くに着いたという連絡があって、ちょうど休憩中だったので外に出ると、1ブロック先にキャリーケースを引いた彼の姿がありました。(3年ほど前のことですが今でも鮮明に覚えています)

久しぶりに会えたことと、来てくれたことが嬉しくて、お互い駆け寄ってハグをしました笑

彼はバンクーバーに1週間滞在しました。

お互い以前から気になっていたこともあり、彼が帰る頃にはもっと一緒にいたい思うようになっていました。

彼は日本で起業することになっていたので、日本に戻りました。

彼が帰ってしばらく経った時、グランドスタッフとしてパートタイムで働いていた航空会社から、社員にならないかというオファーがありました。
社員になれば永住権のサポートをしてくれるとのことです。

職場で信頼できる同僚にはカミングアウトしていて、ありのままの自分を受け入れてくれる環境だったので、これからの自分の人生をどうしていくのか本当に悩みました。

悩んだ結果、母のことが気になっていたことと、彼と一緒に日本で暮らしてみたいという気持ちから、社員にはならずに日本に帰国することを決めました。

どこで暮らすかよりも誰と暮らすか。
それが自分が出した答えでした。(彼に会いたいだけ笑)

留学する前は日本に自分の居場所はない。
そんな思いでバンクーバーに来ることを決めましたが、こっちに来てみると家族や大切な人の近くにいられることの大切さに気付かされました。

帰国の判断は間違ってなかったとちょうど2年が経った今思います。

家族のそばにいられること、パートナーと一緒にいられることがどれだけ幸せか。

それに気づくことができて本当に良かったと思います。

自分のやりたいこととは

帰国して仕事をどうするか。

この頃ちょうどコロナ禍が始まって数ヶ月経った頃でした。

やりたいことが特になく、このタイミングで異業界で働き始めるのは難しいのではないかという思いからまた建築業界で働くことを決め、実家から近い場所で働くことができて転勤もない今の会社を選びました。

留学前に取っていた資格と帰国前に受けていたTOEICのおかげで、就活はとんとん拍子で進みました。

いざ働き始めると、やっぱりもともと業界に興味がないせいか、このままここで働き続けるのが良いのかと毎日モヤモヤする日々でした。(自業自得…)

自分がまだ仕事に慣れていないから一時的なモヤモヤなのかもしれないと思うこともありましたが、1年が経っても一向にモヤモヤが晴れず、かといって転職するにもどんな仕事をすればいいのか分からない状況でした。

そんな時に、自己理解プログラムという3ヶ月で本当にやりたいことを見つけるプログラムを知り、藁にもすがる思いで申し込みました。

このプログラムでは本当にやりたいことは、大事なこと✖️得意なこと✖️好きなことの重なる部分にあるという考え方で、3ヶ月間毎日動画を観てワークをこなし、1週間に1度コーチングを受けました。
この3ヶ月で死ぬほど自分と真剣に向き合いました。(3回目の死ぬほど笑)

その結果自分は、
自律心を大事にしていて、自分の人生を自分でコントロールしたい、
また自分の得意なことは自分の学んだことを活かして人の気持ちに寄り添って前進をサポートすること、
今自分の興味があることは心理学やストレングスファインダーを含めた自己理解、コーチングであることに気づきました。

そんな訳で現在は本業を続けながらストレングスファインダーとコーチングを学んでいます。
今の目標は、以前の自分のように自分に強みなんか何もなくて、やりたいことも分からないとモヤモヤしている人が、なりたい姿に自分を変えていけるようなサポートができたらいいなぁと思っています。

アラサーゲイが今思うこと

アラサーになって今思うことは、
社会で生きて行くにはゲイである自分を偽らなければならないと思っていたことと、
自分がどんな人間かということがぼんやりとしか分かっていなかったことが原因で、
自分は生きづらさを感じてきたんじゃないかなぁということです。

あとは家族は本当に大切にしなければいけないということ。

そのため今は、自分がゲイであることを隠さずにありのままでいたい、自分のやりたいことに向かってどんどん行動していきたい、家族を大事にしたいという気持ちが強いです。

今まで自分はゲイであることを前提に人生を選択してきました。
ゲイであることを隠して、自分の人生は説明できないと思っています。

だから自分のことをこのまま偽って生きて行くことほど、悲しい生き方はないんじゃないかとも思います。

中学生の時に父からもらった手紙がずっと胸のなかにあったので、バンクーバーから戻った時に、僕は父親にゲイであることをカミングアウトしました。

父はそんな僕のことを受け入れてくれました。(父が何て言っていたかあまり覚えていません笑)

家族にカミングアウトして受け入れられずに距離ができてしまう、そもそも偏見があることが分かっていてカミングアウトできない、そんな状況もある中で父が受け入れてくれたことに本当に感謝しています。

帰国してからは毎週末実家に帰って家族とトイプードルのファムくんと過ごしています。

母は薬を飲むことで躁鬱病の症状が緩和されたのですが、その分横になっている時間が多くなり、一緒に散歩をしたりストレッチをしたりとなるべく体を動かしてくれるように促しています。

いつまで家族と一緒に過ごすことができるか分からない中で、できる限りその時間を増やして大切にしていきたいと、今はそう思います。

パートナーは起業したのですが人間関係がうまくいかず、韓国で勉強し直すという選択をしました。

日本で結婚することができれば選択肢も広がるのですが、また一緒に暮らせるのはもう少し先になりそうです。

またいつか一緒に暮らせる日が来るまでお互い頑張ろう。

今はコーチングとストレングスファインダーの勉強あるのみ。

不安は行動で消していく、行動あるのみ。

おわりに

思ったことをだらだらと書いてしまったので、本当に読みにくい記事になってしまったと思います。
最後まで読んでくださった方は本当にありがとうございます。

自分はあまり深く悩むタイプの人間ではないので、ここまでやってこれたのだと思います。
そんな自分でも、過去を振り返ると、我慢を重ねた日々に泣いてしまうことがあります。

だからもっと悩んでる人もいると思う。
そんな人にちょっとでも勇気を与えられたらと、そう思います。



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