目標から逆算し、先回りされると意欲を奪われる

私の塾は基本、成績のあまりよろしくない生徒が来ていたのだけれど、たまに勘違い(?)した親が、ものすごく成績の良い子を連れてきて「お願いします」と言ってくる場合があった。中学受験に失敗し、高校受験で挽回したい、という熱意を母親が持っていた。面接のとき、母親は子どもに語りかけた。

「あなた、同級生の○○ちゃんが合格して、泣いて悔しがったでしょう?高校受験で挽回する、って誓ったじゃない!?○○ちゃんは今頃頑張っているよ。負けていられないわよ」子どもはうなづきつつも、またその話か、といった、辟易とした顔をした。

不合格だった時は、本人も口にしてその通りのことを言ったのだろう。けれど、それを言質に取られて、母親からヤイノヤイノと急き立てられる毎日に、ほとほと疲れ切った様子だった。塾以外の時間も勉強漬けにされ、中学1年なのに眉間に険が走っていた。大の勉強嫌いになってしまっていた。

自分の親とはいえ、他人から急き立てられると人間は意欲を失うようにできているらしい。自分が悔しいと思い、自分のペースで物事を進められるなら意欲は保ちやすいが、他人からもっとやれ、もっとやれ、と急き立てられると、たとえ自分の口から悔しいといった事実があっても、やらされ感が強くなる。

人間というのは、「先回り」されると意欲を失う生き物であるらしい。小学校に就学する前の幼児は、学習意欲のカタマリ。小学校入学の際も、心の底から「勉強頑張りたいと思います!」と口にする。学ぶことは楽しいと思っているから。ところが、小学校入学から、周囲が激変する。

「宿題やったの?勉強しなくていいの?」と、親が先回りするようになる。それまでは、子どもが何かできるようになると「ねえ、見て見て!」と言い、親がどれどれ、と見て、その成長に驚くという「後回り」だったのに、子どもが宿題をしたか、勉強をしたか、と、先回りするようになる。

すると、子どもは親にコントロールされている、管理されている、親の手のひらの上で踊らされている感じを持つようになり、嫌気がさす。宿題をしても親は驚かない。勉強しても驚かない。驚くどころか当然視し、当然視するどころか「もっとやれ」と言いかねない。子どもはすっかりふてくされてしまう。

子どもは親に、指導者に驚いてほしい。「ぼく、こんなことができるようになったよ!」と見せて、驚いてほしい。驚かすことに成功したら、よし、次!と、さらに意欲的に学び、何かを習得しようとする。小学校入学前の幼児は、ほとんどがこんな感じで学習意欲が旺盛。

なのに親が、指導者が先回りするようになり、意欲をこそぎ取る。驚いてほしいのに「そんなことで満足するな、もっと上には上がいるぞ」と言って、驚くことにひどくケチになる。日本一にでもならなければ驚いてやるもんか、という実にケチくさい態度をとるようになる。それに対して子どもは。

もういいや、という気持ちになる。親が、指導者が嫌がるマンガやゲームに逃げるようになる。そちらに逃げると、親や指導者が慌てる。必死に止めるようになる。これは子どもにとって、大人の想定外に出ることができた、「疑似驚き」になり、むしろそちらに進もうとムキになったりする。

大人が先回りすることが、その方向に進むことを子どもが拒否する原因となっているように思う。先回りした大人は、驚かなくなる。上には上がいる、先にはもっと先がある、と考え、子どもの今の到達度を「まだまだ」と見下し、驚かなくなってしまう。これが意欲を大きくこそげとる。

私は、驚くことをそんなにケチらなくていいのに、と思う。小学校入学前は、他の子と比較したりせず、昨日できなかったことが今日できたら驚いていたではないか。そしたら子どもはますますハッスルして、できないことをできるようになろうとしていたではないか。それを続ければよいだけなのに。

大人になると、マラソンや自転車に目覚め、運動を楽しむ人が増える。子どもの頃は体育大嫌い、運動会大嫌いだったのに、大人になって誰も比較し、見下したりしなくなった途端、体を動かすことの快感に目覚め、自分の肉体に起きる変化を楽しめるようになる。

研究の世界で、最近「バックキャスト」というのが流行っている。目標を立てて、そこから逆算して今やるべきこと、1年後に達成すべきこと、5年後にすべて完成させること、と、スケジュールを立ててしまうやり方。私はこれが大嫌い。レールをあらかじめ敷かれて、何が楽しいの?という感じ。

仕事だからやるけれど、意欲を保つのが難しい管理法。途中で面白い現象が見つかったら、そっちを育てたほうがおもしろい、というのが研究のだいご味。そっちの方が大発見につながることも多い。途中で見つけた宝に目もくれないというのは、実につまらない。

私の塾は、子どもを山や海に連れて行くのだけど、海に連れて行ったとき、ある生徒が「何もないやん!ゲームセンターは?コンビニは?」と喚いた。私は「そんなもんあるか。海があるやないか」と言ったら、その生徒、ガックリ肩を落とし、仕方なさそうに持参の携帯ゲームを始めた。

するとその生徒の父親が、車からイスや机を下ろし、テレビをつけて、備え付けの冷蔵庫から冷えたビールを取り出し、飲み始めた。その父親は「子どもを小さなころから自然のあるところに連れて行った」という。実は親子で10年もボーイスカウトをしていたという。

ボーイスカウトしていたにしては、父子ともに自然を全く楽しんでいない。子どもは携帯ゲーム、父親は場所を海のそばにしているだけで、テレビを見てビールを飲むのは、家の状況を持ち込んでいるだけ。あまりに不思議なので、その父親に、ボーイスカウトでの過ごし方を聞いてみた。すると。

早くキャンプ地についてビールを飲みたいものだから、子どもが道中で花や虫を見つけても「自然の中なのだからあるのは当たり前、さあ先へ急ごう」と急かし、キャンプ地に着いたら子どもに漫画かゲームを与え、自分はビールを飲んでいたという。自然を全然楽しんでいなかった。無視していた。

そのため、子どもも、海を、自然を全然楽しめない子になっていた。ボーイスカウトという組織が悪くない証拠に、同じボーイスカウトにやはり10年以上参加していた別の家の子どもは、海についた途端、ヤドカリや巻貝に喜びの声を上げ、魚を釣り、キャンプファイヤーの準備に忙しかった。楽しんでた。

目的志向型って、つまんないな、と思う。道中に素晴らしい楽しみがたくさんあるのに、それをめでるのが楽しいのに、目的から現在にバックキャストして、今やるべきことを決め、それが将来にわたってやるべきことが決まっている状態。そこに驚きはない。実につまらない。

目的志向型がひどくなると、道中が見えなくなる。途中で目に入るものはすべて「路傍の石」となる。道端の石ころは、視界に入っても気にも止まらず、見えていて見えなくなるように。道中にいくらでも面白いことが転がっているのに、それが見えなくなる。

「ドラえもん」が宝探しの道具を出したとき、のび太はスリルを楽しむためにママのネックレスを入れた。しかし宝箱はなかなか見つからない。ようやくこの場所か、と思ったら、埋蔵金探しの人物が掘り始めていた。慌てたのび太はジャイアン、スネ夫に協力を要請、一緒に掘り始めた。

ジャイアンが古い木箱を掘り出した。しかしのび太は「こんな箱じゃない!」と捨ててしまう。ようやくお目当ての宝箱が見つかり、ママのネックレス回収。ジャイアンらにはプラスチックの宝物を山分け。ところが、捨てた木箱は千両箱で、別の人物がわがものとして喜んでいた、というオチ。

私たちは、目標を見定めると、他が見えなくなる。視野狭窄に陥る。今を楽しまず、今を観察しなくなると、今が見えなくなる。その結果、子どもの意欲を削いでしまっている現実にさえ気づかなくなる。自分の先回りが、子どもの意欲を奪っていることにさえ気づけなくなる。

どうも、新生児期に親は「先回り思考」が根付いてしまう様子。ミルクを3時間おきに与えるため、睡眠がほとんどとれなくなる中、もうろうとした意識で「子どもが寝ている間に洗濯して、哺乳瓶を洗っといて、自分も食事して・・・」と、段取りを考えて何とかやりくりしようとする。

こうして、物事をゴールから逆算して考えるクセがついてしまうらしい。見事にバックキャストだ。しかし、こうした思考は子どもの先回りをしてしまい、子どもの意欲を削ぐことになりやすい。子どもが小学校に入り、比較されやすくなると、この先回りが仇になってしまう。

子どもは驚いてほしい。親に、指導者に、自分の成長に気づき、それに驚いてほしい。すると、子どもはさらなる成長で大人を驚かそうと企む。意欲を燃やす。ならば、大人は「後回り」したほうがよいのだと思う。たとえ先が見えても、先のことを言わず、今を観察し、今を楽しむ。

目標を見据え、そこから逆算して今なすべきことを考える、というのは、自分で考え、自分で決めるなら、意欲は失わずに済む。しかし、他人にそれをやられると、他人に支配されている感が強くて、逃げ出したくなる。人間はどうも、そうした心理的な仕組みを持っているらしい。

勝負に勝つには、勝負のことを意識させねば、というのは、論理的にはつじつまが合うように感じるかもしれないが、人間心理には合わないようだ。人間の心は論理に従うのではなく、心のことわり、心理に従って動くのだから。人間の心の仕組みに合わせた指導というのを、設計する必要があるように思う。

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