「自己の確立」という呪い 2

教育においては自立とか自律、自発性、自己肯定感など、「自分」「自己」というのをとても重要視する。けれど私は以前から疑問というか、違和感があった。ガーゲン「関係からはじまる」を読んで決定的になった。それから私は、やむなくの場合を除き、意識的に使わなくなっている。

人は、一人では生きていけないからだ。
教育の目標として「自己を確立する」とかいうこともあるけれど、その言いぐさって、他人がどうあろうと自己は自己、揺るがない確固とした自己を確立できるものとして自己を想定している。そりゃ無茶だ、というのが私の印象。

私たちは「鉄」をどうやって理解しているだろうか。夏の日差しに当たると火傷しそうなほどに熱くなる。冬の寒さに当てられると凍てつくほど冷たい。塩水にさらされると錆びる。磁石にくっつく。フライパンや庖丁になる。などなど、鉄をめぐるいろんな関係性を私たちは知っている。

そうした、鉄ではない何者かとのつながり方を知って、私たちは鉄を知ることができる。鉄以外との関係性の「結節点」に、鉄という名前をつけている。鉄を理解するとは、鉄以外のものとの関係性を理解することに他ならない。そう、鉄を理解するには、鉄以外との関係性を知ることが必要。

それは「自己」にも言える。自分なんか、いくら分析してもタマネギみたいなもので、むいてもむいても何も見つからない。私たちは自己とか自分とかを認識できるのは、他者との関係性があるから。他者との関係性のない自己、自分なんて、認識しようがないし、理解も当然できない。

ガーゲンは、「自己」なんていうから、まるで他者が存在しない世界でも自分を認識できるかのような誤解をする、と指摘する。私もその通りだと思う。他者を想定しない「自己の確立」なんて、ありえない。他者との関係性のネットワークの結節点に「自己」という名前をつけているだけ。

自分とか自己が独立に存在し、確立できるものだという「誤解」を与えたのは、ガーゲン氏が指摘するように、デカルトだと思う。デカルトは「方法序説」という本で、「まずはすべての既成概念を疑え」と言った。で、見るもの聞くもの感じるもの、すべて否定していく作業を続けると。

どうしても否定しようものないものに気がつく、とデカルトは言う。考える自分の存在を否定しようとしても、否定しようと考える自分がいる。考える自分を否定できない。で、「我思うゆえに我あり」(コギト・エルゴ・スム)という有名な発見がなされた、ことになっている。

なるほど、デカルトの言う通りの作業をすると、否定しようとしても否定できない、考える自分を発見することになる。これにより、自己はすべての既成概念を否定してもなお存在を主張する、確固たる存在物になり、自己は真っ先に確立できるもの、という「気がしてしまった」ように思う。

でもやっぱり、私は「気のせい」だと思う。自己を認識できるまでに、私たちは五感を通じてこの世界を知り、様々な人々と出会い、交流する中で自分を認識する。目の前の人が笑顔になったり、怒ったり、悲しんだりする顔を見て、自分がどうふるまったのかを推測する。他者を見て自己を見る。

そうした人生経験を積んで初めて、自己というのが芽生える。そう、自己とは、他者との関係性の結節点につけた名前でしかない。ただの結び目でしかない。他者なしに自己を認識することなんて、できやしない。それはつまり、他者なしに自己を確立する、なんてそもそも無理、という話になる。

自己肯定感、というのも、その一つだと考えている。昨今、子育てでは非常に重要視されている。しかし、私は特に日本という文化圏では、自己肯定感はムリだろ、と考えている。日本の場合は「他者肯定感」が非常に重要な気がしている。

キリスト教圏だと、自己と神だけの世界、という考え方が可能。他者がどれだけひどいことをしようと、神だけは自分をきちんと見てくれている、という信念があれば、自己を確立できる、と考える。自己肯定感は、絶対唯一神のいるキリスト教圏では、まだしも確立しやすい感覚かもしれない。

しかし、日本はどうも、八百万の神の文化圏らしい。ものすごく他人の目を気にする。他人の評判を気にする。他人からどう見えるか気になる。そんな文化を内面化した日本人は、自己肯定感は、他人からの厳しい視線が向けられただけであっさり崩壊する。

どれだけしっかりした自己肯定感を育んだつもりでも、学校の教室でクラスメート全員からシカト(無視)を受けたら、簡単に崩壊する。日本の文化は、他者にどう見えるか、他者とどう関係を結ぶかを重視する。その文化を内面化した日本人は、「自己」は他者なしに確立できないことをよく知っている。

だから私は最近、自立とか自律とか自発性とか自己肯定感という言葉をなるべく使わないようにしている。「自分」なんて、他者との関係性の中でしか確認できないもの。それは実は、キリスト教圏でも結局は同じであることを、ガーゲン氏は指摘する。そりゃそうだろう、と思う。

「俺は俺だ!」と気張ってみたところで、他者との関係性がうまく結べないと、独りよがりの強がりになってしまう。自己を鍛える、なんて無理。私は、心はトウフだと思っている。簡単に傷つき、ボロボロになってしまうもの。心は鍛えようがない。

ただ、心は「テクニック」を身に着けることはできる。相手がこんな振る舞いをしてきたときはああしてみよう、こうしてみよう、と仮説を立て、試行錯誤し、うまくいったものをテクニックとして蓄積する。鍛えるとすれば、そうしたテクニックを増やすことなのかもしれない。

「自分がしっかりしなければ」と思っているとき、私は実にしんどかったし、不器用でもあった。しかしある時から「ありがとう!助かった!」と、他者の助けに感謝の言葉を言ったとき、その人がまた張り切ってくれるだけでなく、関係性が良くなることを発見した。頼られるって、嬉しいんだ。

そういえば、自分も頼りにされるって、嬉しい。しっかり者と認められたような気がして。だったら、人をもっと頼りにしよう。ありがとうと言おう。自分がしっかりしようとするばかりではなく、他者のしっかりぶりに驚き、感謝を述べよう。そうしてから、ずいぶん楽になった。

「頼りにする」のと「甘える」のとの違いも分かってきた。頼りにする場合、相手の好意に驚き、感謝するが、次もあるとは思っていない。まさに「有り難い」と思って、期待はしない。しかし甘える場合、「次もやってくれるよね?」と期待する。これはすごく相手から嫌がられる。

相手の好意に「まさか」と驚き、喜ぶのと、相手の好意を当たり前と考え、次もお願いね、と甘えるのとでは、全然違う。自分もそうして甘えられると重く感じ、面倒に思い、やりたくなくなる。なら、甘えないようにし、頼るようにしよう、というテクニックが身に着けられる。

そうしたことは、他者との関係性を実際に結び続ける中で、観察し、試行錯誤することではじめて見出せる。「自己を確立する」とか言って、他者との関係を遮断して自分一人だけでウンウンうなっていても見出せるものではない。

逆に言えば、ひどい他者が多い空間だと、トウフのように柔らかい心はズタズタに引き裂かれる。どんな他者と関係性を結ぶのか、とても重要。もし、どうにも相性の合わない他者ばかりの空間なんだったら、変えてしまったほうが良い。関係性を楽しく結べるような他者との出会いが大切。

自己というのは、いちおう結び目(結節点)としては存在するように思う。しかし、他者との関係を断絶して存在するかのように考えてしまいがちな、自己肯定感とか、自立とか、自己の確立とか、用語の感触としておかしいように思う。そりゃ無理だ、というのが、私の感触。

「自分は生まれてきてよかったんだ、生きていて構わないんだ」という感覚が自己肯定感の表したいものなのだろう。この感覚を得るには、他者の存在が必要。しかし、自分をいくら肯定してくれる家族がいても、自分を全否定する第三者が多いと、けっこう挫ける。私もそうだった。

第三者とどう関係を取り結ぶか。それを練習する必要がある。そのためには、関係を良好に結びやすい第三者の存在が必要。自分の存在を面白がり、楽しみにしてくれる人が第三者で一人でもいると、ずいぶん違ってくる。

「自己」という言葉の呪いが、もしかしたら家族を苦しめているのかも、という気がする。ご高齢のスクールカウンセラーの講演を聞きに行ったところ、不登校の子供を抱える親たちの言葉かけにいちいちケチをつける話ばかりだった。私はだんだんイライラし、ついに爆発。

「ここには不登校の親御さんも多いことでしょう。すでにそうした人たちは、自分を責めてばかりいる。その人たちの言葉かけに難癖つけるばかりで、スクールカウンセラーはいったい何をするっていうんですか!ただ全責任を親におっかぶせているだけじゃないですか!」

不登校になるとつらいのは、第三者との関係性を結ぶ場を、訓練する場を、一気に喪失してしまうこと。なんと、現代社会では、子どもたちは第三者との関係を結ぶ場が、事実上学校だけとなっている。学校という場が厳しくなると、第三者と関係を結ぶ場所をほぼ完全に失ってしまう。

スクールカウンセラーは、親に偉そうに説教するのではなく、子どもにとってよき「第三者」になればよいのに、と思う。まったくの赤の他人だけど、君のこと、面白いと思うよ、君といると楽しいね、という態度。それがあるだけで、子どもは全然違ってくるように思う。

恐らく、私が怒ったスクールカウンセラーの重鎮とやらも、「自己の確立」という「呪い」に縛られていたのだと思う。学校に通えなくなったのは子どもの「自己の弱さ」であり、そうした弱い子に育てたのは親の責任、と、子どもと親を責めるのが仕事、と勘違いしていたのでは、と思う。

そんな呪い、いらん。そんな呪いを親子にかけるより、子どもと話して「君、おもしろいなあ」と、その子のあるがままを面白がり、存在を肯定する。親御さんと話すときも、「いろいろご苦労があることでしょう」といたわり、あまり自分で自分を責めないでくださいね、と言ったほうがよい。

他者からの肯定が、次への一歩を誘発する。スクールカウンセラーは、親子のダメな点を叱責したりお説教したりする「余計なこと」をするのはやめ、その子、その親をまず肯定し、受け入れ、面白がり、そこから一歩を踏み出す勇気が自然と湧き出るようにする方が良いように思う。

「しっかりとした自己を確立する」なんていうウソ、「呪い」は忘れちまった方が良いと思う。自己という心はトウフのように柔らかく、しっかりなどできないのだから。けれど、他者との関係を結ぶ訓練をする中で、自己という結節点は次第にしなやかに動けるようになる。

しかし、自閉症スペクトラムなど、自己がしなやかになれない場合もある。私は、社会そのものがしなやかになってほしいと思う。昨今、コミュニケーション能力という言葉がよく言われるけれど、コミュニケーション能力が貧弱になったのは、個人ではなく、社会ではないか、と思う。

ちょっと変わっている人がいても「変わっているなあ」と笑いつつ、一緒に笑い、生きればよい。なのに、社会が変わり者を受け入れる余裕を失っている。むしろコミュニケーション能力を失ったのは、社会のように感じる。

多様な人を受け入れるテクニックを、社会自身も蓄積する。それが必要なのかな、と思う。何でもかんでも責任を個人という「自己」に押しつけるのは、ちょっといくら何でも責任放棄すぎやしないか、と思う。

私たちはもう少し、第三者として、子どもたちなど、関係性を結びやすい存在になって上げられたらな、と思う。「お前は変わり者だ、そこを直せ」と矯正しようとするのではなく、「君、面白いやっちゃな」と楽しむ。関係を楽しむと、不思議に子どもは変わる。

前にまとめたから繰り返さないけれど、私の人格をダメ出ししている間、私は担任に逆らってばかりいた。私の父と面談後、担任は私をよく観察し、言葉かけを工夫した。その結果、集団になじめないはずの私がなじめるように変わってきた。面白がってくれたから。
https://note.com/shinshinohara/n/nfc24a2ab772b

「自己の確立」という呪い、もう少し見直したほうが良いように思う。それが皮肉なことに、翻って、他人のせいにばかりする心理を生むことにもなっている気がするし。自分のせいでも他人のせいでもない。関係性の結び方が重要。そのためのテクニックの蓄積が重要。そんな気がする。

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