「主義主張を信じ込む」から「仮説のアップデート」

「お前の主義主張は何なのだ?」と聞かれたとしたら、「そんなものありません」と答えるしかない。主義主張を持つと観察や考察が曇り、養老孟司氏のいう「バカの壁」ができると考えているので、主義主張を持たないようにしている。その代わり、「好み」と「仮説」がある。

こうあるべき、ああすべき、という「べき」に囚われると、そうでないものを許せなくなる。否定したくなる。その中にもしかしたら大切なものが含まれているかもしれないのに、大したことはないと過小評価してしまう。他方、自分の考えに合う情報は過大評価してしまう。

「針小棒大」という言葉あるけれど、これをもじって造語すると、「針大棒小」とでもいえばよいか。針のように小さなことでも自分の「べき」論に合うものは棒のように大きく解釈し、合わないものは棒のように大きいものも針のように小さいとけなし、軽視・無視する態度。

「べき」に囚われると、情報がゆがむ。観察しても、自分に都合のよい現象は重大に見え、都合の悪い情報は無視できる大したことのないもの、とバカにする。観察がゆがめば当然、考察もゆがむ。主義主張は観察と考察を曇らせ、正確な判断を難しくしてしまう。

だから、私は観察する際、「べき」を脇に置くことにしている。とはいえ、私にも「好み」はある。自分がどんな好みを持っているかは把握したうえで、好みという「レンズ」がゆがみをもたらすことを弁え、その「屈折率」を考慮して、現実がどうなっているかを補正するようにしている。

鹿児島育ちの親戚で料理人になった人がいる。その人は自分がおいしいと思った味より甘さを抑えるのだという。鹿児島での食生活は甘みの強いものが多く、このため、自分が最もおいしいと思う味より甘さを抑えたほうがお客さんのウケがよいと言っていた。自分の「好み」の屈折率を知っていたのだろう。

私にも当然好みがあり、このために観察したとしても好みによる「屈折」が起きる。その屈折率を経験から割り出しておき、観察した結果は、その屈折率を考慮して把握するようにすると、ちょうどよいらしい。そんな風にして、観察・考察を行うようにしている。

そうして観察・考察を行うと、一定の判断は自然と出てくる。どうやら現場はこうなっているから、こうしたほうがうまくいきそうだ、という「仮説」。仮説だから、絶対こうだとは考えない。新たな情報、手法が見つかったら、あっさり新たな仮説にアップデートする。

仮説は、あくまで「こうしたほうがよさそうだ」というオススメでしかない。しかしどうも、少し年配の人は「こうすべきだ」と、べき論にしてしまう。仮説でしかないものを絶対的真理とみなしてしまい、アップデートを不可能にしてしまう。そして自分の論を心理真実だととらえて硬直化する。

私は、旧世代のこうした言動は、デカルトのせいではないかと考えている。デカルトは「方法序説」の中で、次の二つの原理を説いている。
・すべての既成概念を疑うか、ないしは否定せよ。
・確からしいと思われる概念から、思想を再構築せよ。
デカルトのこの主張は、近代合理主義の基礎となった。

デカルトのこの提案は、その昔、とても魅力的だったようだ。徹底してすべての既成概念を疑い、否定して、確かな概念から思想を再構築したら、まったく過ちを含まない完ぺきな思想を構築できるではないか!なんで素晴らしい方法なんだ!と、デカルトを読んだ後世の人々はみんなこの作業を行った。

しかし、デカルトの「全否定」と「再構築」は、皮肉な結果を生んだ。自分の思想の正しさを「信じて疑わない」人の増殖。なぜか。
それまで子どもの頃から素朴に信じていたことを、一時的とはいえ疑い、否定するというのはとてもつらい作業。そして、そのつらい作業をくぐり抜けてきたからこそ。

「こんなにつらい思いをして思想を再構築した人間は、世界広しと言えどもそうはいないだろう。もしかしたらこれほどの大偉業を完全に成し遂げたのは自分一人だけかもしれない。だとしたら、私の思想は完璧に正しいと信じてよいだろう」と、自分に気を許す心理が働いてしまうらしい。

このため、デカルトの「全否定」と「再構築」を行った人は、自分の思想の正しさに絶対の自信を持ち、他者から攻撃され、否定されても全く改めようとせず、自分と違う考えの持ち主を愚か者呼ばわりし、否定するようになってしまう。

デカルトは「疑うこと」(方法的懐疑)を勧めていたけれど、徹底して疑うからこそ、自分の思想を正しいと信じ込んでしまい、もはや疑うことがなくなってしまう、という皮肉なことが起きてしまいがち。デカルトによる近代合理主義には、こうした副作用があったと私は考えている。

だからこそ、ロベスピエールは敵対する人間を「間違っている」と平気で殺すことができたのだろう。レーニンは「後世の人は理解してくれる」と言って、敵対者を死に追いやることができたのだろう。自分の思想は絶対正しく、敵対者が間違っているに決まっている、という「信念」があったから。

「信念」といえば、マンガでもドラマでも「俺の信念」とか言って、かっこいいもの、持っておくべきものととらえられがち。しかしオルテガは「信じて疑わない思い込み」のことだと指摘している。私はこの指摘を読んだ時、最初、受け入れがたかった。私の名前は「信」だから。信念はいいものじゃないの?

でも、考えれば考えるほど「そうです、信念は思い込みです」と認めざるを得なかった。信じて疑わない思い込みを持つと、「アップデート」ができなくなる。アプリにバグが見つかったらそれを修正するアップデートが必要なのに、それができなくなったらまずいように、信念はアップデートを難しくする。

デカルトの「徹底して疑う」と「再構築」の提案は、私は間違っていた、と考えている。少なくとも、まずい方法。そろそろデカルトの方法(方法的懐疑)は、「アップデート」したほうがよいように思う。しかし、このアップデートはなかなか容易ではない。なにしろ400年も続いた「思枠」なのだから。

何年か前、駅を歩いていると「新聞を疑え」という新聞広告を見た。逆説的な広告で面白いとは思ったものの、このキャッチコピーは、一つの「信念」を基礎にしている。「疑うという行為は、賢い人、合理的精神の持ち主なら当然やることだよね?いいことだよね?」という信念。

私は、「疑う」という行為がまずいのではないか、と思う。疑うという行為は、どうも心理的につらい、不愉快な行為であるらしく、疑えば疑うほど別のことを信じ込む、という逆説的な現象が起きやすい。「こんなにつらいのだから、代わりに何かを信じたい」というメカニズムが働くのかも。

私はだから、「疑う」という行為をもうやめちゃったらいい、と考えている。でもこういうと、「疑う」を否定したら、信じ込めというのか?という疑問が出てくるかもしれない。私は、「疑う」以外の方法で、より正確に物事を観察し、考察することは可能だと考えている。それが「前提を問う」。

金属の分野では、水素にさらすと水素が金属に染み込み、脆くなる「水素脆化」という現象が知られている。これはもう教科書的な知識であったらしい。ところである研究者が、水素を徹底的に金属に染み込ませたらどうなるのだろう?と試してみたら、驚くことに脆くなるどころか、丈夫になった。

「水素にさらしたら脆くなる」というのは、「中途半端な濃度の水素にさらしたら」という「前提」の上では正しかったのだけれど、その前提を問い直し、「徹底的に高濃度で高圧の水素にさらしたら」と「前提」を変えると、まったく別の現象が起きるようになったという。

こういう現象は数多い。たとえば私たちは、鉄がさびやすい金属だということを知っている。しかし、99.999%という超高純度の純鉄だと、全然さびなくなるのだという。一般的な「鉄がさびる」という知識は、「中途半端な純度の鉄は」という「前提」が隠されていて、その前提が変わると、結果も変わる。

私は、「疑う」代わりに「前提を問う」ことをお勧めしている。物事には必ず前提があり、その前提が成立するぶんにはその現象は正しく起きるとみなしてよいかもしれない。しかし、前提が変わると話が違ってくることが多い。こうして、物事の真偽を見極めるには、「前提を問う」で十分だと考えている。

ノーベル賞を受賞した本庶氏は、記者会見の場で「教科書を疑え」と仰ったけど、私はこれも「前提を問う」に置き換えたらよい、と考えている。
本庶氏が研究を始める前、「免疫を強めてもガンを抑えることはできない」というのは、教科書にも書いてあることだったという。

本庶氏は、「免疫を強める」のではなく、「免疫を弱めている原因を取り除く」(免疫チェックポイント阻害剤)という逆転の発想でガンの治療法に道を開いたという。この話も、「前提を問う」で置き換え可能だと思う。

教科書の記載は「免疫を強めようとしても」という「前提」があったけれど、本庶氏は「免疫を弱めるメカニズムをいじったら?」と、別の「前提」を置いた。だから新たな発見ができたのだろう。前提を変えると結果がガラリと変わる。そうした好例のように思う。

これまで「疑う」が果たしてきた、良い面の効能は、「前提を問う」で置き換え可能だと考えている。「疑う」は確かに、「前提を問う」のと同じ効能を果たしてきたように思う。けれど、別の副反応「信じ込んで疑わない」が伴うことが多く、その副作用の弊害が大きすぎる。

ならば、副作用の弊害を減らし、望ましい効能だけを強める「前提を問う」の方が、デカルトの方法よりも優れているように思う。

実は、デカルトのこの方法は、一つの「亡霊」がつきまとっている。この亡霊の名は、リュクールゴス。そしてこの亡霊は、古代ギリシャの哲人、プラトンもつきまとわれている。

リュクールゴスは、古代ギリシャの強国スパルタ(ラケダイモーン)を、強国ならしめた伝説の人物。それまで存在したスパルタ人の伝統や文化、慣習を根こそぎ変え、新たにデザインし、スパルタ人を強い兵士へと変貌させたという。

プラトンは「国家」という本の中で、このリュクールゴスの伝説を取り上げ、「もし優れた人物がリーダーとなり、国家をゼロからデザインし直せば、理想の国家を築くことができるだろう」と提案した。そう、これまでの伝統文化を疑い、全否定し、新たにデザインすることを勧めた。

そう、これ、デカルトの方法とそっくりではないだろうか。実はデカルトの「方法序説」にも、リュクールゴスの名前が登場する。優れた設計者が、都市をゼロから再構築したら、完璧に美しく機能的な都市を作ることができるだろう、思想もそうすべき、と提案した。

プラトンの「国家」は、後世の人々に一つの幻想を抱かせた。完璧な人間が国家を根底から建設し直したら、理想の国家が作れるのではないか、と。そして完璧な人間を製造するには、デカルトが提案した「方法」があると考えた。これによって、凄惨な出来事が起きた。

端的な例は、ポル・ポト。国民のすべてを農民にすれば理想の国家が作れる、と信じた指導者が、文句を言う知識人を皆殺しにし、国民すべてを農民にしようとした。自分の信念を信じて疑わず、否定するものを間違っていると信じ込んだ。

自らの主義主張を信じ込み、違う主義主張を持つ者を否定し、場合によっては殺してしまう。こうした行動を人間にとらせたのは、プラトン、デカルトによる「根底から疑い、否定し、設計し直す」という提案が大きな影響を及ぼしているだろう。そしてこの両者は、リュクールゴスの亡霊にとりつかれていた。

私は、「疑う」という行為には、「リュクールゴスの亡霊」がつきまとい、かえって信じて疑わない人間を産み出す、という皮肉な現象が起きると考えている。そろそろ、こんな副作用の強いやり方は「アップデート」したほうがよいように思う。「前提を問う」という新たな手法に置き換える。

常に「前提を問う」ようにし、ひとまずこれは妥当な「仮説」であるらしい、と思われたら、当面はその仮説に従って行動する。もし不都合が感じられたら「前提を問う」ことで原因を探り、新たな「仮説」を紡ぐ。こうすれば、より適切な言動へと「アップデート」することが可能だと思う。

だから私は、主義主張を持たない。私なりに徹底して「前提を問う」ようにし、得られた「仮説」はあり、その仮説に基づいて行動するが、もし新たな知見が得られれば「仮説」を更新(アップデート)する。それでよいのではないか、というのが、今のところの私の「仮説」。

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私たちはついつい、「べき」論に囚われ、そうでないものを否定する。でもそれは「リュクールゴスの亡霊」に囚われている。どうやったら思考のアップデートが可能になるのか。それを徹底的に考えてみた本。

「思考の枠を超える」日本実業出版社
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