「ほめる」の問題点をディスカッションしたまとめ
火曜日の夜、私がファシリテータを務める形でウェブ飲み会を開催した。私の発信に興味があったという教員の方や保護者の方たちが参加し、合計16人が集まって話を始めた。テーマは「『ほめる』の問題点」。
ほめるのは、上から目線というか、教師や親が期待する方向に誘導しようというコントロール欲が潜んでいるというか、そういうのがしばしば見られ、その魂胆を子どもが見抜いて反応が悪いことがある、という指摘があった。ただ、年齢層による違いがある、という。
小学校低学年くらいまでは、ほめると素直に喜ぶという。しかし大人の企み、魂胆みたいなのをかぎ取る年齢になると、「ほめる」に対する警戒心が強くなり、やすやすとは乗ってくれなくなる、むしろ反応が悪くなることがある、という指摘があった。他方、優等生は違うという。
優等生は、ある意味幼い子と同様の素直さがあり、ほめられて嬉しがるという。というより、ほめられに行く。ほめられるための行動をとるようになる。このため、「君の好きにしていいんだよ」という教師に出会うと、面食らい、何をどうしてよいのかわからなくなることがあるという。
こういう「大人から見た優等生」は、大人にほめられるために、認められるために行動を決定しており、自分がそうしたいからそうする、というのとはどうも違うらしい。だから、自分の好きにしてよい、と言われると、どうしたらほめられるのかがわからなくて戸惑ってしまうのだという。
他方、こうした「大人から見た優等生」は、まるで幼児であるかのような素直さを持っているからこそ、大人が「こうしたらいいよ」というとその通りにしようとするので、その能力がよく伸びる、という利点もあるという。ただ、自己決定する力が未熟な面がどうしても気になるところではある。
また、こうした子は思春期、反抗期になるとうまくいかなくなるケースがある。大人に対して素直な態度でいる自分が嫌い、シャクに障る、という感情がもたげてしまうと、「大人から言われた通りにする」というこれまでの王道パターンをどうしてもとる気になれなくなってしまうことがある。
さりとて、大人のいうことに素直に従うという以外の行動決定をしたことがないので、自分が果たして何を望んでいるのかがわからない。このため、どうしても素直でいることが嫌になった子は、反抗期を迎えた時にものすごく惑乱することがある。親はこうなると、これまでの黄金パターンが通じないので
大変戸惑うことになる。それまで優等生だったのに、思春期になって不登校になったりするケースとして、私はこのパターンが結構目につくように感じている。「大人から見た優等生」がしばしば陥り、しかも一度つまづくとなかなか回復が難しくなるパターン。リスクの高い道のように感じる。
ところで、私が「ほめる」よりも「驚く」を推奨しているのを読んでいて、実践してみた人ばかりで驚いた。「ほめる」だと反応が薄いけれど、「驚く」だと非常に反応がよいことに驚いた、という声が多かった。他方、保護者の方で「何に驚いたらいいのかわからない」という声も。
そこで私は、知人から「驚く、よりもこっちの方がいいよ」と言われた言葉を紹介した。「差分に気がつく」。昨日よりも今日、子どもができるようになったこと、変化に気づくこと。それに大人が気づいてくれると、子どもはものすごく嬉しくなるし、やる気が増す、ということを紹介した。
幼児はよく「ねえ、見て見て」という。これを言うときは大概、昨日まではできなかったことをできるようになったよ、と、親に見せたいとき。まだ披露したことのない能力を見てもらい、驚いてほしい、というとき。昨日と今日の違い、差分に大人に気がつき、驚いてほしい、ということなのだろう。
この「差分に気がつく」には、どうしても必要なことがある。子どもを観察すること。見ていなければ気がつかない。昨日できていなかったことを知っていないと、今日成長した差分に気がつけない。だから、観察することがとても重要になる。
この「差分に気づく」がきちんとできているなら、別に「驚く」でなくても「ほめる」でも構わないだろう、という意見も出た。ただし「ほめる」はしばしば子どもを観察することなく、差分に気づくことなく、大人の側で用意した物差しのどこまで達成したか、という計測(スケーリング)をしてしまう。
その物差しで100点なのか、80点なのか、という達成度ばかり見て、その子が昨日と今日、どんな差分が起きているのかに気づいていない。関心がない。こうした場合の「ほめる」は、多くの場合、子どもの心に響かない。むしろ空疎に聞こえてしまうことがあるようだ。
オランダで教師をしているという方が、オランダ人の教師が子どもにかける言葉を紹介してくれて、非常に面白かった。子どもが作品を持ってきたときに「君が好きなところはどこだい?」「君の気に入っているところはどこ?」などと問うのだという。すると。
子どもは次第に、先生に作品を持ってくる際、どこがポイントなのかを説明する言葉を用意するようになるという。そのためには、作品を作る段階ですでに構想を持つように意識することになる。こうして、自分は何が好きなのか、明確に自覚できるようになっていくのだという。
ところが日本の場合は、大人(教師、親)にほめられたくて作品を作る面がある。作文にしろ絵にしろ。このために、自分が書きたくて(描きたくて)書いているのではなく、先生が、親がほめてくれるから書く、というスタイルになってしまう。自分が何をしたいのかわからなくなってしまう。
このオランダの問いかけは、非常に興味深い。普段、生徒が多すぎて観察しきれない場合でも、子どもが自ら工夫したところ、お気に入りのところを自己申告してくれることで、そこに特に注目して観察することができるようになる。こうすることで「差分」に気がつきやすくなるメリットがあるだろう。
子どもは物差しを見てほしいのではない、自分自身を見てほしい。物差しに合致しているかどうかを見てほしいのではなく、自分の中に起きた成長という差分に気がつき、それに驚いてほしい。そのためには「観察」が何より重要。
工事現場の監督をしているという方が、やる気のないスタッフもやる気を出してもらう声掛けの工夫をしておられるという。そのコツは、ピンポイントでほめることだという。「ここ、いいね!」と。すると、ほめられて嬉しいものだから、やる気を結構出してくれるようになる、という。
ここであえて私は、参加者に質問をぶつけた。「芸大の先生から聞いたのだけど、技術をほめるとそればかり再現しようとして進歩がなくなるのでほめないようにしている、という。ピンポイントでほめてやる気が出ることはあるだろう。でもこの芸大の話と矛盾する。どう考えれば?」と。
そこで参加者から出た意見は「やはり観察ではないか」というもの。芸大の先生がある技術をほめたのは、物差しに合致するかどうかという形になっていて、作家自身を観察しているとは言えないのではないか。他方、工事現場でスタッフをほめたそのやり方は、観察しないと出てこない言葉。
つまり、自分を見てくれている、気にかけてくれている、ということを感じるから嬉しくなり、やる気が出たのではないか。他方、自分を観察してくれているわけではなく、物差しに合致するかどうかだけを見ている言葉は、観察できていないのではないか、と。
結局、物差しばかり見るか、その子そのものを観察するか、そこが重要なのではないか、という意見で落ち着いたように思う。私が「差分に気づく」という意味での「驚く」を推奨するのも、「ほめる」よりは、観察していないとできない反応だから、というのもある。
実に多様な人たちの、多様な意見が出て大変楽しかった。忙しいので私が主催することはあまりできないのだけれど、たまには私が主催させてもらって、いろんな人の意見を今後も伺っていきたいと思う。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?