お金持ちも暮らしにくい、環境にも最悪な格差の大きすぎる社会

私は農業研究者なので、農業研究者ならではの経済の仕組みというのを考えてしまう。
すごくシンプルに考えると、世界中の人類を養うに足る食料を農家が作り、これをきれいに分配できる運送業の仕組みさえ整うなら、それだけで飢えずに済む社会になる。

ただ、実際には料理するのにガス電気水道も必要だから、そうした生活インフラを維持する仕事も大切。病気にもなるからお医者さんと看護師さんもいてほしい。などなど、生きていく上でエッセンシャルな仕事をする人だけ確保できたなら、人間は生きていけるように思う。

農家、運送業、生活インフラを支えるエッセンシャルな仕事をする人たちを確保でき、食料とエネルギーの量が十分で、それをすべての人に分かち合う仕組みがあるなら、他の人は働かなくても社会は回る。誰も飢えずに済む。そんなふうに夢想する。

実は私達の社会はすでにそうなりかけている気がする。スマホは手続きしたり連絡したり、人とつながりを維持する上で必須の道具になりつつあるものの、ないならないで生きていけるもの。どちらかというと動画を見たりSNSを見たり、娯楽目的の要素が強い商品のように思う。

成長著しいIT技術も、その多くが食料のような生きていく上で必須のものを扱っているというより、エンターテインメント。生きていく上で必須とは言えないもので多くの商売が成り立つ。

自動車もエンターテイメント性が強い。移動すればそれでよい、という実用主義なら、デザインなんかどうでもよいはず。でも乗り心地やカーステレオ、かっこよさや可愛さなどのデザイン性など、今のクルマからエンターテイメント性を取り除くとかなりのものが失われる。

そう、私達の社会はすでにエンターテイメントが経済のかなりをしめている。エンターテイメントが雇用を大きく生んでる面がある。もしエンターテイメント性を除いてしまい、生きていくのに必要な職業だけに絞り込んだら、多くの人が仕事を失い、あぶれてしまうだろう。

生きていくために必須とはいえない楽しみのためだけの仕事が、現代社会では大きな存在感を持つ。スマホもインターネットも、エンターテイメント性が大きく占める。私達の経済は、すでにエンターテイメントが大きな割合を占める社会になっていると言えるだろう。

私はこのことに、大きな可能性を感じている。ある意味、すでに私達の社会はベーシックインカム的な仕組みを事実上備えているとも言えるから。食料生産にも運送業にも全くと言ってよいほど直接的な貢献はないエンターテイメントで多くの人が仕事を得、それで食料の分配にあずかるのだから。

逆にいえば、今の世界の様相は大いに疑問でもある。何で多くのIT企業は人をなるべく雇おうとせず、少数の人間だけで稼ぎを牛耳ろうとするのか?そんなことをしたら多くの人が収入という分配にあずかれず、その結果、食料の分配にもあずかれなくなる。そんなことしなくても食料は十分にあるのに。

私が試算したところ、世界の穀物は、世界中の人が毎日ご飯16杯分(3700kcal)食べられるだけ生産されている。これだけの量を食べきれる人はそう多くないだろう。なのに世界には飢えている人がいる。なぜか。家畜に穀物を与え、その肉を食べているから。

肉1kgを得るには、ウシなら穀物11kg、豚なら7kg、鶏なら4kg必要(近年は技術が進んでもっと少なく済むようだが)。このため、肉を食べるとそれだけ多くの穀物を消費してしまうことになる。日本人は肉をたくさん食べるため、ご飯24杯分の穀物(5400kcal)を毎日食べていることになる。

もしIT業界が変に雇用を減らさず、多くの人に賃金が行き渡るようにし、それによってすべての人に食料が行き渡るようにすれば、誰も飢えずに済むはず。なのに「要らないから」と言って人を雇おうとせず、利益を一部の人たちだけで総取りしようとしてしまう。このため食料が行き渡らない人が出てしまう。

ここでよく登場するのはベーシックインカム論。しかし私は悲観的な気持ちでいる。竹中平蔵氏がベーシックインカム論を言い出したからだ。竹中氏は自分を含めた富裕層に極端にお金が集まる仕組みを作るのが大好きで、貧乏人にはなるべくお金を渡さずに済む仕組みを作るのが巧み。貧富の格差拡大論者。

そういう意味で竹中氏は実に悪賢いのだが、別の面で見ると愚か。環境問題に全然頓着していないからだ。
恐らく竹中氏の理屈はこう。少数のお金持ちだけがこれまで通りの豊かな生活を送り、貧乏人を生きるか死ぬかの貧困に追い込めば、食料もエネルギーも節約できるだろう、と。

もし竹中氏がそう考えているとしたら、重大な点で誤りがある。貧しい人が増えたらエネルギー消費が増え、環境負荷が大きくなることを、恐らく見落としている。
貧しい人は新しい機械に買い替えるお金がない。電気を大量浪費する割に冷えないクーラーを使い続けたり。

途上国では煮炊きに使うガスを買えないから薪を燃やす。すると不法に森林が伐採される。食生活のバランスが悪くなり、健康を害するので思うように働けない。生産に携われない人が増え、でも食事は減らない。人を貧しさに追い込むと、かえって環境が悪化しかねない。

竹中氏はお金持ちにだけお金が集まるようにするための制度設計が非常に巧みで、説得力も変にある。しかし基本的な社会に対する理解が誤っているように思われて仕方ない。竹中デザインの社会に進めば、お金持ちにとってもろくな社会にならないだろう。

格差が非常に大きいアメリカでは、すでにその兆候が見えてる様子。アメリカでは、年収3000万程度ではベビーシッターを雇うことはできず、夫の育児参加は逃れられない状況だという。なぜなら、怖くて子どもを預けることができない社会になったから。

一昔前のアメリカでは、ベビーシッターによる赤ちゃんの虐待が問題になった。ベビーシッターは貧困層の人が多かった。
このためかは分からないが、アメリカの富裕層の幼児死亡率は、スウェーデンでの貧困層のそれよりも高くなっている。富裕層も、安心していられない社会。

このため、アメリカで安心して赤ちゃんを預けられるベビーシッターは、ものすごい高給取りになっているのだという。とても年収3000万程度の夫婦では頼めないほど。このため、妻は夫に育児参加を強く求めるように。それができないなら離婚もいとわないくらいになっているという。年収3000万程度では、育児を夫婦で分担する覚悟がない限り結婚できない社会になりつつある様子。

アメリカは貧富の格差を大きくし過ぎたために、年収3000万でもいろんなことにお金がかかりすぎて裕福とは言い難い社会になりつつあるらしい。ごくごく少数の富裕層だけがサービスを受けられる。ただしかなりの出費を伴って。

日本はつい最近まで貧富の格差が小さく、そのおかげで良質のサービスを低料金で受けることができた。これは富裕層を変に恨んだり羨んだりせずに済む、格差の小さな社会だったからできたのだろう。だから少し小金持ちになるだけでかなりゆとりが持てた。しかし今は違う。

世間一般からは高収入とみなされる人も、ゆとりがあるわけではなくなっている。その収入を維持するためには長時間働かねばならず、そうすると生活を維持するためにコスト高なサービスに頼らざるを得ず、ゆとりが生まれない。

私達は、竹中氏の幻術に惑わされてはならないように思う。それで得する人は、事実上いないのではないか。一見、恵まれた立場に思えるお金持ちも、子どもを安心して育てることも難しくなりかねない。誰も安心できない社会になりかねない。しかも環境に悪い。いいとこなし。

多少の格差はあっても構わない。けれど誰も食べるのに不自由を感じずに済む社会を。誰もがほんの少しは生活にゆとりを感じ、楽しむことができる社会を。それを実現するのが政治家の最大の責務に思う。どうかそのことを忘れずに頂きたいと思う。

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