育てようと思わなくていい、育つのに驚き、面白がればいい
ツイッターで「子どもを育てる自信がない、結婚する気にもなれない」という声を時々頂く。知人の若い女性も同様の発言。仲人Tさんもそういう話を聞くらしく、投稿されていた。
別に結婚しなきゃいけないわけでもないし、子どもを産まなきゃいけないわけでもない。それを前提した上で。
子育ては「育てなければならない」という「ねばならない」を忘れ、楽しませてもらう気でいたらよいのではないか、と思う。そのほうが子どももスクスク育つように思う。
「ねばならない」思考に陥ると、目の前の子どもが見えなくなる。「正しい子育て」をしようとすればするほど子どもが見えなくなる。
子どもをああ育てよう、こう育てようなどと思わずに、子どもが育つ様子を楽しむ。それでよいように思う。
私は、赤ちゃんに対する多くの母親の接し方が理想的だと考えている。赤ちゃんは言葉が通じない。だから母親は、赤ちゃんにアレしなさい、コレしなさいと指示命令することはない。
ただ赤ちゃんの健康と、健やかな成長を「祈る」コトができるのみ。するとある日、寝返りを打てるようになり、驚くことになる。ハイハイできるようになり、驚くようになる。つかまり立ちできて驚き、ついに立ち上がって驚き、言葉を口にして驚き。毎日のように変化があって驚く。
子どもの健やかな成長を「祈る」、そして子どもの様子を「観察」し、昨日までと今日の「差分」として成長が見えたとき、「驚く」。そうして子どもが成長していく様を楽しませてもらえばよいだけのように思う。すると、子どもは親が自分の成長を祈り、そして驚き、喜んでくれることを信じるようになる。
もうそれだけで、子どもは健やかに成長してくれるように思う。
子育てがややこしくなる原因のほとんどが、「育てよう」「育てねばならない」という親の思い込みに発しているように感じる。
子どもが言葉を話せるようになると、教えたくなる親が少なくない。しつけを厳しくしようとか。
けれど、親が教えるようになると、子どもはだんだんつまらなくなる。親が驚かなくなり、説教ばかりするようになるから。それまでは、何かできるようになると親が驚き、喜んでくれるのが嬉しくてどんどんできることを増やして驚かしてやろう、という気になっていたのに。
親が教えるようになると、「それができるようになったか、もっと早くできるようになったらよかったのに。じゃあ次はこれ、今度はもっと早くできるようになれよ」と、言葉にはしなくてもそういう態度が親から見えると、子どもはやる気をなくす。「もう親は、ボクが成長しても驚いてくれないんだ」と。
育てよう、育てねばならない、と親が思うと、人間心理なのか、「これだけ自分が頑張ってるのだから、報われて当然なのではないか」という気持ちが湧いてきやすいらしい。すると子どもが何らかの成長をみせると「そら見ろ、親の私が努力したからこんなことができるようになった」と誇りたくなるらしい。
けれど、それは子どもからしたら手柄を取られた気分。頑張ったのはボク、私なのに、お父さんお母さんが自分の手柄にしてしまう。しかも親は子どもの自分の成長に驚いてくれなくなって久しい。頑張ることが虚しくなってしまう。バカバカしくなってしまう。
私の知っている東大生や京大生に聞いたところだと、親から勉強しろと言われた人は非常に少ない。「親から勉強しろと言われたことがない」というケースがほとんど。「もともと勉強できるから親が言う必要なかったんだよ」という反論も成り立つかもしれないけど、私はどうも違う気がする。
これらの親御さんは、子どもの成長を祈り、そしてそれが現実になると驚いていたのだと思う。すると子どもは、赤ちゃんが、幼児が異様な意欲で学習し続けるのと同じように、学校に通うようになっても学ぶことを楽しんでいたのではないかと思う。実際、知識欲が旺盛。
一人だけ、「母親からヤイノヤイノと勉強しろと言われた」という京大生がいた。その学生は続けて「親の言う通りに合格した。もう勉強はヘキエキだ」と言っていた。親からヤイノヤイノ言われると学習意欲が大きく損なわれるらしい。
しかし、「親から勉強しろと言われたことがない」という学生は、知識欲が旺盛なままだった。自分の知らなかったことに出会えると喜ぶ。知らないことに出会えた!と。自分が成長できたことを楽しんでいた。親が驚き、喜ぶ人だと、子どもも知的好奇心を喜びにするようになるのでは。
私はこの仮説に基づき、学生やスタッフに接するようにした。ああすべき、こうすべき、などと、指導者側がコントロールしようという欲を捨て、それらの人々の功績を自分のものにしようという欲を捨て、その人たちが何かしら変化を見せたら驚き、能動的に動いたら驚くようにしてみた。すると。
年齢を問わずに意欲的になった。新しいことに貪欲に挑戦し、新しい知識を手に入れようと積極的になり、新しい工夫をどんどん試すようになった。私は驚き、感心し、楽しんでいただけ。なのにドンドン成果を出す。ああそうか、人間は驚いてくれる人がほしいんだな、と思った。
そして驚いてくれる人がいると、自分が変化していくこと、成長していくことを自分でも楽しめるようになるのだな、と。
私はその考え方を自分の子どもにも適用してる。「適用」といえばなんだか重々しいけど、子どもに何らかの変化、差分があればそれに驚き、面白がっている。
ああしろ、こうしろとも言わないのに、子どもが能動的に動くことに驚かずにいられない。「へー!」と驚いてると、子どもはますます驚かそうと能動的になる。能動的にさえなれば、子どもはどんどん知的好奇心を高めるものらしい。
子どもたちは今、ポケモンにハマっている。30分経ったら目の休憩を入れる約束はしてるけど、特にゲームを嘆かわしいなどとは考えていない。子どもたちは捕まえたポケモンについて熱く解説してくれる。私はワケワカランと思いつつも、それだけポケモンワールドの仕組みを理解してることに驚く。
子どもたちからすると、ポケモンワールドの世界を知ることと、漢和辞典から新しい知識を手に入れることには、特に境界線はないらしい。どちらもゲームとして楽しんでいる。ゲームをしていたかと思ったら、漢和辞典ひっくり返したり本を読んだりしてる。どちらも知の冒険をしてる気分なのかも。
子どもが能動的に何かに取り組む。そうした姿を見せたら、それが他人に危害を加えたり危険があるものでない限り、驚いている。子どもが能動的になることは、親にはどうしようもないことだから。どうにもできない現象が起きたその奇跡に驚いている。すると子どもは、能動性を維持するものらしい。
何に能動性を示すかはコントロールできない。私はそのコントロールを諦めている。しかし能動性が登場したときに驚いていると、その能動性が現れる確率が格段に高くなる。その不思議な現象に、いつも驚かされる。本当に不思議だなあ、と。
子どもだって疲れることがある。ダラダラしたいときもある。我が身を振り返ってその通りだから、それもしゃーないと思ってそのままにする。するとなぜだか、子どもは再び能動性を取り戻す。それに驚かされる。楽しませてもらう。それを日夜やってるだけ。
親は、子どもを「育てよう」などと思わずに、子どもが勝手に「育つ」という奇跡に驚かされ、それを楽しませてもらえばよいのだと思う。どうやらそれが子どもにとって何よりの喜びだし、能動的になる大きな要因になるようだから。ほんと、不思議。