片付けろ、宿題しろ、寝る準備しろ、は抽象的すぎる

子どもに「お片付けしなさい!」「宿題しなさい!」「寝る準備しなさい!」と注意して、子どもがなかなか動かないことにイライラする親御さんも多いと思う。あまりに動かないから「うちの子どもは怠け者」とレッテルを貼ってしまうことも。
でも実は、片付け、宿題、寝る準備などの言葉が抽象的過ぎ。

片付け、と言っても、何をどうすることなのかピンと来ない。宿題、と言っても、抽象的過ぎて響かない。寝る準備、と言われても、何のことかはっきりしない。親からしたら具体的に思えるフレーズも、小学校中学年くらいまでは抽象的でピンと来にくい言葉。

さっき、おばあちゃんから「本読んでないで、お片付けしよ」と言われた娘(小3)。「うん、わかった」と言いながらなおも本を読み続けた。「いやだから、片付けを」とおばあちゃんに重ねられて「わかったから!私がやるからおばあちゃんやらないで!」と口答えする娘。

あ、これは「お片付け」という言葉が抽象的すぎて娘の中で像を結んでないな、と感じたので、代わりに私が。
「かいけつゾロリ先生の本、本棚のどこに入れたらいいだろう?」というと、私から受け取って、ここだなという場所にしまった。「次、すみっコぐらしは?」「百姓貴族は?」次から次へと。

大人にとって十分具体的に思えるお片付け、宿題、寝る準備、などの言葉も、実はまだ発達が十分ではない子どもからすると、具体性のない抽象的な言葉。
それを命令されたからって、一体どう動けと言ってるのか見当つかない状態になることが多い。具体化する手間がある分、子どもはスッと動けない。

私は「お片付け」がもっと具体的になるよう、どの本(かいけつゾロリ)を、どこ(本棚)に入れるかを明確にした上で、本棚にどんなふうにしまうのか、本人が能動的に振る舞える余地を残した上で相談した。このように具体的な作業に分解し伝えると、子どもはスッと動けるらしい。

宿題も、「宿題をしろ」だと抽象的。「宿題は何があるの?」と聞き、本人が答えてくれたら「どれからやるといいかな?」と、具体化する作業を手伝うと、もう宿題を始める気になっていることが多い。その場ではやらなくても、「この遊びの次にやったほうがいいな」という気持ちになったりする。

「寝る準備」もあいまいだから、寝巻きに着替えることなのか、歯を磨くことなのか具体化し、そのうちのどれから始めるかは本人に委ねるようにすれば、大人から言われた「受動的」な感じでなく、自ら決めた「能動的」な感覚で取り組める。

実は、大人でも同じことが起きる。初めての職場なのに「この部屋掃除しといて」と言われて、問題なく動くことは難しい。どこにホウキがあるのかもわからない、掃除機で掃除したほうがいいのかもわからない、机は雑巾で拭いてよいのか、布巾のほうがよいのかわからない、新品の布巾を使ってよいのかも分からない。

「この部屋掃除しといて」も、初めての職場では十分抽象的。何をどうすればよいのか、具体的には全く見当がつかない。ここの職場ではどうするのが普通なのか、どこに何があるのか、使うときの注意点など、具体的にある程度示されないと、動けなくなる。大人でもそうなのだから、子どももそう。

何度もやったことがあるのだから分かるはずだ、と大人は勘違いしやすいけど、そうでもない。たとえば助手席に座っていただけで自分で運転するつもりのなかった人が、何度その道を通っていても、いざ自分が運転してみるとどこで曲がるのか確信持てなかったりする。

これは「受動的」だったからだと思う。助手席に座っていれば、何も考えなくても目的地にいつの間にか着いた、しかも自分で運転することはないだろうとタカをくくってると、まるで道順を覚えられなくなる。自分で運転するつもりでないと道を覚えられない。覚えるつもりでも、助手席は見える景色が違う。

一度は道案内してくれる人が横に乗り、自分で運転してみると、道を具体的に覚えやすくなる。「能動的」だからだろう。お片付けも宿題も寝る準備も、親が全部段取りしてきたのでは、何度経験していても「受動的」なために頭に入らない。どうしたらよいのか分からない。

子ども本人が次、どうすればよいかを、大人がアシストしつつ、でも子ども自身が「能動的」に取り組む経験を繰り返さないと、何をどういう段取りで進めたらよいのか見当つかない。抽象的ではなく具体的に、受動的ではなく能動的に。それが子どもの成長には欠かせないように思う。

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