「楽しむ」=「学ぶ」=「生きる力」=理解力

既に中学生で、なんなら既に中学三年で、どの教科も80点なんかとったことない、という生徒向けの学習法(高校生のための大学受験向けも含む)を、以前まとめた。勉強の苦手な生徒が、どうにか80点以上とるのに確実な方法を書いてある。ただし。これは「勉強」。
https://t.co/vkWgoukCuc

私はもともと「勉強」に批判的。だって「勉(つと)めて強いる」という、イヤイヤ強制されてやるのが勉強だから。仕方なしにやるのが勉強だから。まあ一応、やり出したら楽しんで、達成感味わえる学習法を書いといたけど、それでも「お勉強」であるのは確か。
私は「勉強」より「学ぶ」にしてほしい。

息子が2歳か3歳の頃、「学」という字を見て「あそぶ」と読んだ。息子が漢字をかなり読めるのを知っていたので、私は怪訝に思い、なぜそう読むのか聞いてみた。すると息子は「まなぶことはたのしいから」と、クネクネ踊りながら答えた。ああ、良かった、と思った。

私は、学ぶことと遊ぶことに区別を設けていない。遊ぶことは学ぶことだし、学ぶことは遊ぶこと。遊びの中に学びを見つけ、学びの中で遊ぶ。自分自身が、次第に子供の頃のこわばり、呪縛を解きほぐしてその状態になっていったのだけど、息子もどうやらその状態。そしてそれは3歳離れた娘も。

YouMeさんも遊びと学びに区別がない人。梅酒の梅の実を有効利用してアイス作ったけど酸味が強かった。YouMeさんとディスカッションして「そういえばタンパク質は酸味を和らげる効果が」という話になり、卵白混ぜたらまろやかに。しかし果肉のザラザラ食感が課題に。裏ごししたらなめらかに。

柿をブランデーに漬けたり白ワインに漬けたり。YouMeさんとは、料理のことで次の「実験」をどうするかディスカッションし、仮説を立て、試してみるという「遊び」をやってる。失敗も学びのうち。次の実験に役立つから失敗はウェルカム。そうして楽しんでる。

YouMeさんとは、子育ても楽しんでいる。子どもに何か課題が出たとき、問題のありかを共に考え、原因と思われるものを推定し、どうしたらよいか仮説を立て、それを二人で役割分担して試す、ということを繰り返している。互いに情報共有し、「じゃあ次はこうしてみようか」楽しみ、驚き、学んでる。

私は、子どもたちに楽しんで生きていってほしいと願っている。楽しむ力とは、を考えると、課題を「不思議だ!」と驚き、どう攻略しよう、と観察し、メカニズムを推定し、どう対処したらよいか仮説を立て、試してみる。その結果が失敗だろうと成功だろうと、次の学びになる。それを楽しむことじゃないか。

私は研究を仕事としているのだけど、人生を楽しむことそのものが研究じゃないか、と思うようになった。私たちは次々に課題に直面する。それを観察し、なにが起きたのかを推定し、対処法を仮説し、試してみて、その結果をさらに次に生かす。その繰り返し。子育てだってなんだって。

子どもたちがどんな人生を歩むかはわからない。ただ、楽しんで生きてほしい。楽しむ力は、この世に生起する様々な現象を不思議に思い、観察・推論・仮説・実験・考察の「科学の五段階法」を繰り返し、得られた知見を学びとして「へー!こうしたらこうなるのか!」と、感心しながら楽しむこと、かな。

楽しむ力は、学ぶ力でもある。学ぶ力は、この世を楽しむ力でもある。この力は、この世に生きるための知恵を身につける力でもある。自然や生命の不思議さ、神秘さに目を瞠り、驚く感性(センス・オブ・ワンダー)をみずみずしく保つ力でもある。この世界を美しく、楽しいものと捉える力でもある。

学ぶことは楽しむことなんだから、「ねばならない」なんかに縛られたくない。楽しんで学び、学ぶことを楽しんでほしいと思う。
大人になって、学ぶことってこんなに楽しいことだったのか、と気づく人は多い。学ぶことを「勉強」だと勘違いし、苦行だと考えていた時間をムダにして悔しい、とも。

私はずいぶん長いこと「ねばならぬ」に縛られ、がんじがらめにし、楽しいことも楽しめないようにしていた。だんだんと、「楽しんだもの勝ち」だと思うようになり、生きているたけで結構楽しく、学ぶことは生きることであり、楽しむことでもある、と、次第に溶けて一体化してきた。

子どもたちもそんな風に考え、育っていってくれたらな、と思う。楽しんでさえいれば、子どもたちは勝手に学ぶ。飽きたら別のことに熱中するけど、また思い出して元に戻ったり。そのときにはさらにバージョンアップしてるから面白い。

数学者の方から、冒頭の勉強法だと高等な数学を理解できる人材は育たない、と指摘された。その通りだと思う。だってそれはまだ「勉強」だから。楽しんでないから。イヤイヤだから。
私は高等数学を理解できない人間だけど、恐らくそれを理解するには、「楽しむ」が不可欠のように思う。

数学科の博士課程に進学した同級生は、いつも本屋とか食堂とかとかでダベっていて、フラフラしてるようにしか見えなかった。しかしいつも頭の中では数学のことを考えていたらしい。考え続けることが楽しいのだろう。楽しくなければ続かない。

息子は今のところ、算数というか数学のことが大好きで、図形や代数のことをよく考えているらしい。私が気をつけてるのは、息子が数字や図形を考えることを楽しむのを、アシストすること。ともかく楽しんでりゃそれでいい。間違ってたって指摘しない。指摘されたら楽しくなくなるから。

間違いに自分で気がついたら、悔しくて二度と忘れなくなるし、間違ったという体験を踏まえた方が深く理解できる。なら、間違っていても指摘しない方がよい。どうせ好きで楽しんでいて、ずっと考えているなら、自分で間違いに気がつくから。楽しんでさえいりゃそれでよい。

私は、深い理解力の原動力は「楽しむ」ことにあるんじゃないか、と仮説を持っている。楽しくないなら、やっつけ仕事になり、終わったらさっさと忘れてしまう。楽しかったら、もう一度やりたいな、今度はこんな工夫をしてみようか、あれを克服するにはどうしたらよいのだろう、と考え続ける。

数学者というのは、とにかく考え続ける人らしい。息子は別に数学者にならんでもいいと思ってるし、数学が苦手な私でもそこそこ楽しんで生きてるので別にできなくても構わないが、息子は楽しんでる分、理解と進捗が早いみたい。

野球選手になる人も、プロピアニストも、英語の達者な人も、楽しんでる人は強いなあ、と思う。たぶん、楽しむ力が学ぶ力になってるのだろう。楽しいから考え続け、工夫し続け、繰り返し反復し、長丁場でも飽きない。

私は、職場でもなるべく「楽しむ」ことを大事にしたいと思っている。楽しみ始めたとたん、壁ができていたのが壊れ、再び成長し始めるのを経験上知っているから。これはいくつになっても起きることらしい。楽しむと、たとえ高齢者であっても学び、変化していく。

楽しもう。楽しむことはそのまま学びになる。学びはそのまま楽しむことでもある。楽しむと、壁があると想われていたこともヒョイと超えてしまうことがしばしば。楽しむことが、学ぶ力の源泉のように思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?