Facebookに(日本の)若い人が少ないのはなぜか?

Facebookはなぜ年配者ばかりなのか、という意見が。「先輩とか上司とかが友達申請してきて絡んでくる。説教しようとする」という理由を紹介したところ、「そんな会社辞めちまえ、起業しろ」という人が現れ。そういう説教臭くて挑発的なおじさんが多いから嫌がられるのだと思う。

Facebookは本名主義。だから、登録すると簡単に会社の上司とかに見つかってしまう。すると「こいつ、日常でこんなことをしているのか」とネタにする上司が現れたりする。そういうのがウザすぎてFacebookをしないでいる、と若い人から聞いていて、そりゃそうだよな、と思う。

本当に親しい人とだけつながるのだったら、インスタグラムとかの方が便利であるらしい。本名を明かす必要はなく、適当なアカウント名をつけておけばよいから。ツイッターなら若い人がやっているのも、本名を名乗る必要がないからだろう。

年配者にとっては、あまり年をとりすぎるとそもそもネットに弱く、Facebookをしていない。だから自分たちに説教垂れる人と出会う可能性は低い。それでいていろんな人とお近づきになれるということで、特に年配男性はFacebookが好きだなあ、と思う。

でも年配男性というのは、とかくお説教好きが多い気がする。一番ウザがられる言動が好き。自分はお前よりも能力が高く、経験も豊富で、知識もあるぞ、というマウントをとりたがる人が多いのが、年配男性。どうしてだろう?そういうホルモンでも働くのか?それとも文化的なものか?

欧米では若い人もFacebookをしているのだという。だとすれば、日本の特殊事情なのかもしれない。若い男性からすれば「オジサンから絡まれ、説教され、罵倒される空間」として避けられ、若い女性からは「変なおじさんに好意を向けられるリスクのある空間」になっているのかもしれない。

日本はなぜ「説教好きの年配男性」を生み出しやすい文化があるのだろう?共同研究の都合から、とある二つの大企業の人たちを引き合わせたことがある。すると、お二人とも「自分の方がビッグなビジネスをしている」というマウント合戦が始まって面白かった。それをして何の得にもならないのに。

動物番組なんかで、メスの取り合いのためにオスが「自分の方が強いぞ」「俺の羽の方がきれいだぞ」アピールしたりしているけれど、オスにはそうした遺伝子が働きやすいのだろうか?いや、欧米の人たちは若い人もFacebookをやっているのだから、日本のような説教臭いオジサンは少ないのだろう。

日本の男性は、一定年齢以上だと「学歴や社会的地位の上を目指せ」と尻を叩かれた世代。そしてそれを勝ち得た人間は勝者、という文化で育てられている。分かりやすいヒエラルキーがあった。その文化の影響が、まだまだ色濃く年配男性にしみわたっているのかもしれない。

本来、Facebookは、社会的立場などの垣根を越えて人とつながるツールなのに、年配男性は「自分の方が上だ」というマウントか、営業の時にお客様をもてなす気分で「あなた様はすごいですね」とほめるか、その二種類しか人付き合いの仕方を知らないのかもしれない。

実際のところ、私もそうした文化に侵されていた。YouMeさんのお父さんの実家に行ったとき、大阪人の私は沈黙が苦手で、何かしゃべらないと、と思っていた。ところがその空間は、沈黙が苦にならず、不思議と居心地がよかった。「よう来なされた」という歓迎の空気で満ちていて。

マウントなんか一切考えず、「よう来たね」という歓迎の気持ちがあるだけで、こんなに心地よいとは!私にとって、カルチャーショックだった。そこには男性も複数いたが、誰もマウントをとらなかった。そんな男性がいるなんて!という点も、ショックだった。

今、住んでいるところで日本酒の会に誘われた。後で聞くと実に面白い職業の方々が集まっているのだけど、仕事の話はせず、楽しい話ばかり。実に居心地がよかった。この中でキノコ研究者がいて、この人は決して他人の悪口を言わない人だった。すごいなあ、と私は感心しきり。

日本の年配男性は、少々不幸な立場にあるように思う。マウントとることを当たり前だと考える環境で生きてきて、なかなかその癖が抜けない。そのために人間関係に遠心力が発生して、なかなか若い人とコミュニケーションが取れず、ウザがられてしまう。女性からも。

他のコミュニケーション方法があるのに、それに気づかない。つい、相手の仕事を聞き、それをきっかけに自分の知識と経験を披露し、早い段階で自分自慢を始めてしまう。そうした習性がなかなか抜けないでいる。しかしこの接し方は、若い世代や女性にかなり嫌われる方法。

それでもこれまでそうしたアプローチが容認されていたのは、経済的主導権がそうしたおじさんたちに握られていたから。けれど、徐々にその牙城は切り崩されている。経済的主導権を失いつつあるのに、やり方を改められないでいる。

私は「驚けばいいのに」と思っている。「自分の方が上だ!」マウント以外だと、相手をほめる営業トークしかない、と、一定数のおじさんは考えてしまうらしい。相手を上に置き、自分を下に置く。そうした屈辱的なアプローチしか、マウントをとる以外だとない、と考えてしまう人が結構いる。

私は、自分が知らないこと、できないことに出会うと驚くようにしている。すると、相手は気分よくいろんな話をしてくれる。そのうえ、こちらのいいところまで見つけようとしてくれる。おかげでとても良好な関係を結びやすいように思う。

でも、マウントおじさんは「驚くというのは無知の表明、できないことを認める敗北宣言」と思っているフシがある。そのため、「驚く」ことがどうもできない。もしするとしても、それは相手をほめておだてて下手に出る場合。でも、そんなに屈従的な態度にまで引き下げる必要はないのに。

相手が思わぬ工夫をしたり、発見したり、優しさを示してくれたらそれに驚く。ただそれだけでよいのに。互いに長所を認め合う対等な、だけど尊敬しあう関係が作れるのに。マウントおじさん世代のイノベーションは、果たして可能なのか?それは、Facebookに若者が増えるかどうかでモニター可能かも。

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