体験データの積み重ねを見守り、時に驚く

息子や娘が通っていた育児支援室では、時々手品が披露されていた。3歳未満の子どもは、帽子からステッキが飛び出てきてもちっとも驚かない。小さなものから大きなものが出てくるはずがない、という体験データが蓄積していないため、「そういうことも起きるだろう」というような反応になってしまう。

かけ算の順番について書いたら少しバズったけど、その中のコメントで、「子どもの発達段階」を踏まえていない意見が複数あるなあ、と感じた。かけ算を習う小2くらいだと、まだ3×4の答えが、今日は12かもしれないけど明日は違う数字になるかもしれない、と感じてる子が少なくない。

数を数える、という体験データが十分に積みあがっていない子にとって、計算問題の答えが一つしかない、ということには納得がまだできない。小さな帽子から長いステッキが出てくることもあるだろう、という感覚に似て、計算式が3×4でも、答えは日によって違うことだってあり得る、という風に感じてる。

そういう子は、3×4という問題を解くにしても、3つの点を4列書いてから「いち、にい、さん・・・」と数える地道な作業を繰り返したほうがいい。それを膨大に繰り返していくうち、「3×4はもしかして、答えがいつも12になるんじゃないか?」と気がつく。答えがブレることがない、と気づく。

そうなってから初めて、かけ算を理解する土台が出来上がったと言える。「小さなものから大きなものが飛び出すことはない」ことを体験データから学ばないと、手品を不思議に思えないのと同じように、「こうすればこうなる」ということを、体験データの蓄積によって学ぶ必要がある。

学習が進まない子の多くの場合の原因は、体験データの不足だと私は考えている。なんで3×4のような簡単な問題が解けないんだ?覚えればいいだけじゃないか!と大人は思うかもしれないが、3×4が常に12になるという体験が不足している子にとっては、「騙されているんじゃないか」という疑念がぬぐえない。

体験データの不足は、しばしば「先回りして教える」ことによって起きる。3×4はいつも12なの!わかった!?と、丸暗記を強制してしまうと、体験データの裏付けのない情報となってしまう。上滑りする情報のため、「知識」と呼ぶにふさわしくないほど、アヤフヤになってしまう。

それで問題が解けてしまうので、分かっているつもりになってしまう。でも体験データが欠落したままだから、3×4は14だったような気もしてしまう。でも12だと思い出せることが多いので、実は分かっていないという状態を把握できずにそのまま学習を進めてしまうことになってしまう。

でもこうしたアヤフヤを放置していると、のちに伸びなくなる。アヤフヤだらけになって、一定の確率で3×4を13だと思ってしまったり、速度の計算を時間÷距離だと勘違いしたりというのが続出して、点数が伸びなくなる。体験データの裏付けをしないまま、表面的に覚えてしまっているから。

3×4は本当に12になるんだろうか?昨日はそうだったかもしれないけれど、今日はどうなんだろう?と、納得いかない時期での体験データがとても重要。3つの点を4列描いて「いち、にい、さん・・・」と一つ一つ数え、何度数えても12になることを体験するからこそ、子どもは一つの確信に至る。

「計算問題は、常に答えが一つなんだ!同じ計算問題なら、昨日も今日も明日も、ずっと同じ答えになるんだ!」と、偉大なる発見をする。この確信があってこそ、算数や数学の能力を積み上げていくことができる。けれど、コツコツ体験データの蓄積をするのを邪魔すると、こうはいかない。

そして、体験データの蓄積を邪魔するのが、「教える」という行為。「3×4はいつも12なんだから、そう覚えてしまえばいいんだよ」と、良かれと思って近道な方法を教えてしまう。でも、その知識には体験データの裏付けがない。だからすぐに化けの皮が剥がれる薄っぺらな「情報」にとどまってしまう。

子どもが納得いくまで「本当にそうなるんだろうか?」と追究する作業を、邪魔しないようにした方がいい。「教える」ということは、体験データの積み重ねをしばしば邪魔することになるので、好意から来ている行為にしては、子どもにとってあまり望ましくない結果をもたらす。

子どもはある時から、手品に驚けるようになる。何も持っていなかったはずの手からハンカチが出るはずがない、小さな帽子からステッキが出てくるはずがない、と、体験データから学んでいるから、驚けるようになる。私は、子どもたちに「何が不思議なの?」と聞いたことがある。

「大きなものが小さなものから出てくるはずがないでしょ!しかもステッキは硬くて長いんだよ!」という答えが出てきたときに、私は驚いた。教えなくてもその事実に自分で気がついたなんて!それを説明できるほどに成長していたなんて!

息子は5+7を計算する際、最初は5つの点と7つの点を描いて「いち、にい、さん・・・」と数えていた。ところがある時からいきなり「12」と答えを書くようになった。なんでいきなり12って答えが出せるの?と聞いたら、「7は5と2でできているでしょ、5と5を足したら10でしょ、それに2を足すから」

私は、教えもしないのにそんなテクを自分で見つけ、駆使するようになったことに驚いた。そうしたテクを発見できたのは、2+5はいつも7であり、5+2はいつも7であることを、「いち、にい、さん・・・」で、膨大にこなしたことで発見し、思い知ったからだろう。だから。

7は5と2に分割しても構わない、と考えることができたのだろう。5と5を足せばいつも10になる、ということも、膨大な体験データから発見したのだろう。10+2は12であることもそう。膨大な体験データを積み重ねると、子どもは計算テクを次々に発見、駆使するようになる。

一つには、そばで見ていた私が、そうしたテクを自力で発見する子どもの様子に「驚く」のが、大きく作用したのだろう。「この程度で驚くなら、もっとテクを発見して驚かしてやろう」と子どもは企むようになったらしい。だから、体験データを積み重ねながら、「法則」を探す癖がついたのだろう。

大人は、子どもが飽きずに様々なことにのめり込み、体験データを積み重ねている様子に感心し、時折「ねえ、見て見て!」という呼びかけに応じ、その工夫、挑戦、発見に驚いていたらよいのだと思う。すると子どもは、ますます体験データを地道に積み重ね、そこから法則やテクを発見しようとするだろう。

「教える」という行為は、しばしば「大人のドヤ顔」ではないか、という気がしている。お父さんは、お母さんは、もうこんなことも知っているんだよ!ドヤ!便利だろ!それを教えたのはお父さんだよ!お母さんだよ!感謝してね!的な。そこまでの意識はないかもしれないけど、子どもにはそう見えるかも。

でも、子どもはこの世の不思議を自分の力で解き明かしたいと考えている。なのに教えられたら、推理小説の犯人を読む前に明かされたような、楽しみにしていた映画を見る前にクライマックスをばらされたような、そんな残念な気持ちになりかねない。「教える」は親切なようで、アダになる。

それよりは、子どもが熱中して取り組んでいる様子を「よくまあ、こんなに集中するもんだなあ」と感心して眺め、時折子どもが「ねえ、見て見て!」と声を掛けたら、どれどれ、と一緒にのぞき込む。そこで見つけた発見、テクに、一緒に驚くとよい。よく自力で見つけたね!と。

自力で工夫や発見をする子どもの様子に驚く大人が一人いれば、その子はどんどん能動的に学ぶように思う。工夫することが楽しくて。発見が次々に生まれるのが楽しくて。やがて、大人に近づいていく頃には、別に大人を驚かさなくても、自分の楽しみのためにのめり込むようになると考えている。

大人の驚きは、そこに至るまでのアシストでしかないと思う。でもそのアシストがあるかないかで、子どもが能動的になるかどうかの分かれ道になるように思う。子どもが地道に体験データを積み重ね、工夫や発見をしていくさまに、驚く大人が一人、どの子どもにもそばにいますように、と願っている。

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