トマトや微生物から学ぶ子育て

私が現在の子育て観を持つに至ったのは、トマトと微生物のおかげかもしれない。どちらもこっちの言うことを聞いてくれないからだ。
トマトは人間の言葉がわからない。伝わらない。だからいくら「ちゃんと育てよこのやろう!」「何をやってるんだ!」と怒鳴っても、トマトは全然育ってくれない。

「ほれ、この肥料を吸え」と言っても吸わない。こちらがどれだけ期待しても命じても言うことを聞いてくれない。トマトに元気に育ってもらうには。
ひたすら観察し、これが原因で育ちにくくなってるのではないかと推察し、こうすれば原因を取り除けるのではと仮説し、それを試してみる、の繰り返し。

微生物も言うことを聞いてくれない。私の研究対象の微生物群は、慶応大学で解析してもらったら、少なくとも一万種類以上の微生物が含まれていた。それだけ多様な微生物たちに命令してもこっちの願い通りに動いてくれるはずがない。そもそも言葉通じないし。

微生物たちに、こちらが望むように働いてもらうには、ともかく観察し、ここが障害になってるのではと推論し、ここを工夫したら障害がなくなるのではと仮説し、試してみる、の繰り返し。
言葉で命じるより、人間が環境条件を整えることが大切。環境さえ整えば、一万種類の雑多な微生物たちも動く。

それでも、環境条件さえ適切であれば、トマトも微生物たちも動いた。それ自身の生きよう、成長しようとする力で。彼らが動かない、成長しないのは、それを邪魔する条件があったから。それさえ取り除けば、言葉が通じない彼らも、彼ら自身の力で動き、成長し、躍動する。それが研究からわかってきた。

塾で指導してきた子ども達を思い起こすと、うまく行ったときは彼らの成長を阻害する思い込みや環境条件を取り除けていた。うまく行かない時は、ただひたすら彼らの頑張りに期待し、命じるだけで、環境条件をほったらかしにしていた。言葉で命じるのは無力。でも彼らの環境条件を整えたら?

子ども達の意欲をそぐ環境条件は何か、ひたすら観察し、これではないかと見当をつけ(推論)、こうしたら条件を動かし、変えることができるのでは、と仮説を立て、実行してみる(実験)。そうした試行錯誤の繰り返しをすることで、徐々にそれぞれの子どもの意欲を奪う諸条件を取り除いた。すると。

子ども達は劇的に変わった。そもそも、子ども達には成長する力、意欲が備わっている。しかし、それを阻害する何かがある。どの子にも、何かしら。その環境条件を変えると、せき止められていた水が流れ出すように成長を始める。それを見つけるのが、大人の役割。

少なからずの子どもが、意欲をくじく何らかの要因を抱えている。それは何なのか。家庭によっても違うし、子ども一人一人違う。何が意欲を損ねる原因になっているのか、観察し、推論し、仮説を立て、接し方を変えてみる。環境を変えてみる。うまくいかないならまた観察に戻る。

こうした試行錯誤は、医療での問診や診察に似ているかもしれない。「今日はどうしました?」と患者の訴えを聞き、それで病気の候補にあたりをつけた上で問いを重ね、さらに可能性を絞り込む。心音など診察を重ねてさらに可能性を絞り込む。それにより、治療方針を立てる。うまくいかなければ別の方法。

なまじ子どもは、言葉が通じると「勘違い」するから、環境条件に原因を求めなくなり、言葉で解決しようとしてしまうのかもしれない。しかし子どもは、環境条件によってかなり決まる。言葉の額面通りよりも、声色、雰囲気、諸条件を子どもは敏感に感じ取る。

宿題をやりたくなるような環境条件が整ってないのに、宿題をやれと言葉でだけ解決を目論もうとすると、まず子どもは動かない。トマトや微生物と同じ。環境条件が整ってないなら、言葉はほぼ無力。

もちろん、言葉も重要。しかし厄介なのは、言葉の額面と、言葉が生み出す環境条件が正反対だったりすること。「宿題はやったの?まだなら早くやりなさいよ」という言葉は、額面では宿題を促す言葉。ところが言葉の生み出す環境条件は、「宿題をやってもその功績は親のものにされて面白くない」。

もし宿題をしたとしても、「親が言ったから宿題をやったのであって、もし言わなければ宿題を子どもはやらなかっただろう」という決めつけ、思考の枠(思枠)が出来上がってることを、子どもは察知する。だから宿題をしたくなくなる。やったとしても親が鼻をフンと鳴らすだけに終わるなら、面白くない。

子どもが宿題をすると誇らしく、しかも楽しくなる環境条件、構造を用意した方がよい。ここで、「ほめる」が何よりのご褒美になると考え、宿題をしたらほめよう、と考える親御さんは多い。実のところ、女の子だと比較的この方法もまあまあ有効。ところがどうしたわけか、男の子は六割くらい無効。

男の子の半分以上、どうも、誰かの手のひらで動かされてる、というのが嫌い。ほめる魂胆が思い通りに動かそう、期待通りに動いてもらおうという企みからきていることを察知すると、ほめるのをご褒美と捉えるより、手のひらで転がされてる感を覚える。だからほめられてもご褒美に感じない。

結局、言葉で釣ろうというのは、どうも無理がある様子。子どもが意欲を持てない環境条件のままで子どもを動かそうとするのは、低きにある水を上に流そうとするくらい無理がある。

いろいろ試行錯誤した結果、「驚く」ことができる環境条件を整えるのが有効、だと思うようになった。子どもが自ら動いたときに親が驚ける環境条件。そして驚くためには、親は子どもに教えない、ということが必要になる。

たとえば、宿題のことは何も言わない。その環境条件でもし子どもがたまたま宿題をしたら、親は何も言わないで始めたのだから、驚く。驚くと、子どもは親の想定の外に出ることができた、と嬉しくなる。嬉しいと、楽しくなかった宿題も、親を驚かせるネタになる。

親が先回りして「宿題やったの?」と言ったり、「今日は宿題があるって聞いたよ」と教えると、もはや宿題をしたとしても親を驚かすことができない環境条件になったことに子どもは気がつく。すると、宿題は楽しくなくなる。

子どもが学ぶことを楽しめる環境条件を整える。赤ちゃんが初めて立ち上がったとき、言葉を初めて話したとき、親が手放しで驚き、喜んだのと同じ環境条件を整える。自ら考え、自発的に行動したことに驚く環境条件があり、実際驚くと、人間は意欲が高まる。

これはどうも、子どもに限らない。介護の世界ではユマニチュードという技術がある。お風呂に入れよう、食事をしようと介護士が世話すると怒り、乱暴するので手を焼いてる入居者。この人に、ユマニチュードの伝道師が近づき、笑顔で覗き込みながら近づいた。

入居者から指を動かすのでも、視線を返すのでも、何でもよいから自発的な動きがあったとき、相手の目を見ながら軽く驚きと喜びを目に浮かべる。すると入居者は楽しくなって、何かしら自発的な動きをどんどん増やし、ついに相手を見送るため、立ち上がろうとまでした。ピースサインまでして。

相手の様子を楽しげに観察し、何か自発的な行動があったら、それが何であっても軽く驚き、喜びの色を表すと、この人をもっと驚かせよう、喜ばせようと企む。それが自発的行動となる。寝たきりの老人であっても、自発的行動に驚き、喜んでくれる人のため、さらに驚かさそうと自発的に行動する。

自発的行動と言うと自分勝手に行動するように思える。しかし様子をニコニコ見守り、何か変化があったときに驚き、喜ぶ人がいると、この人をもっと驚かしてやろう、と、企むようになる。そう破天荒ではなくなる。

親の自分がいかに驚ける構造を作れるかどうか。そんな環境条件を整えるにはどうしたらよいか。
トマトや微生物たちが教えてくれたことを、子育てに応用する毎日。

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