「反省」考

私は最近、反省って役に立たないからやめた方がいいな、と思っている。反省というのは、どうも今の日本では、後悔の念に打ちひしがれる様子を表している言葉。昔、猿回しのサルが、「反省!」と言われると片手をつき、うつむく芝居とよく似ている。そんな反省を、私達はよく求める。

失敗した人間に反省を求めるのは、負けた犬が腹を見せて恭順の意志を示すように、支配と被支配の関係をはっきりさせようという支配欲から来ているように思う。しかし、臥薪嘗胆のエピソードでもわかるように、屈辱を与えられた人間は表面上、反省して見せるだけで、心の中は怨恨でいっぱい。

反省は本来、同じ失敗を繰り返さないために行うものであるはずなのに、「打ちひしがれ、オレに屈服せざるを得なくしてやろう」という支配欲を暗に優先させているのが、「反省しろ!」と要求する行為なのだろう。他人が反省を要求したら反省しなくなる。私はそう思っている。

同じ失敗を繰り返さないようにするために必要なのは、(形としての)反省ではなく、観察と分析だと思う。失敗を繰り返すのは、たいがい観察ができていない。「また失敗したらどうしよう」という、自分の不安な気持ちばかり見つめ、あるいは反省を自分に求めた人間の、突き刺さるような視線が怖い。

で、目の前の現象が観察できていない。特に、反省を求めた人間がそばで監視していると、目の前の現象よりその人の視線の方が気になって、観察どころではなくなる。その結果、ろくに見てないから失敗を繰り返す。叱声が飛ぶ。それにまた動揺して観察する余裕を失う悪循環。それで生まれるのは。

ただ打ちひしがれ、仰向け腹をみせた犬のように、恭順の姿を見せるだけの、失敗を繰り返す、頭が真っ白な人間。反省を求める人は、人から観察する余裕を奪い、心の余裕を奪い、失敗を増やし、役に立たなくなる人間を増産する、とても効果的な存在。

失敗すると真面目な人は、どうしましょうと気が動転する。私は「アハハ、失敗しちゃいましたか。せっかくなので、何が起きたのか一緒に観察を楽しみましょうか」と声をかける。そして「ここはどうなってます?」などと着眼点を示しては、観察したことをしゃべってもらう。そうして観察を続けると。

「あ、ここはこうした方がよかったかも」というのに自然に気がつく。「じゃあ、次はこうしてみましょうか。それがダメだったらまた観察を楽しみましょう」といえば、同じ失敗を繰り返すことはなくなる。よく観察できているから、どのタイミングでどんな工夫をすればよいか、自然に頭に入っている。

また、観察の結果、自然に自分の中で湧き上がってきた「仮説」に気がついた場合、「この仮説が正しいか検証してみたい」という能動的な欲求が生まれている。「反省」を求めたときに、イヤイヤやらされる行為は受動的だが、これは全く違って能動的。

失敗したときは反省なんか求めず、一緒に観察することで、観察の補助をし、相手の中に自然に仮説が浮かび上がってるくるのを補助するだけでよいように思う。観察すれば自然と分析は進み、仮説も思い浮かび、改善点が見えてくる。「反省」させるとその境地にたどりつけない。

反省させると、反省させられた屈辱の方に意識が向き、目の前の現象を観察するエネルギーが失われる。もし、反省というのが本来は同じ失敗を繰り返さないことに目的があるなら、反省を求めるべきではない。それよりは、一緒に観察を楽しんだほうがよい。

失敗するととても素晴らしいのは、観察に意識を向けるのを補助しさえすれば、それまでとは雲泥の差で観察眼が鋭くなること。鵜の目鷹の目で現象を観察し、何かを拾おうとする。こんなこと、成功してしたらできないこと。失敗は観察眼を高める絶好のチャンス。だから、危険がない失敗はむしろ歓迎。

何がやらかしたら反省を求める文化は、利害の異なる集団が別の集団を屈服させるための古い習慣のように思う。大切なのは恭順の姿にさせることではなく、同じ失敗を繰り返させないことにあるはず。このあたり、ねじれがあるように思う。「反省」は、支配欲を満たす機会にだけなってる気がする。

反省は求めなくていい。失敗した人も反省しなくていい。ただ物事を観察し、心に湧き上がる仮説に従って次の工夫をすればよいだけのこと。周囲は、観察を楽しむアシストだけすればよいように思う。

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