ピアノの発表会はなぜどうでもよくないのか

夏野剛氏がオリンピックの観客の是非を論じて「ピアノの発表会なんかどうでもいい」と発言したことがある。後で謝罪に追い込まれたが、この発言は子ども非接触社会を象徴するものと言えるかもしれない。社長に成り上がるためには仕方なかったろうが、子どもの成長を楽しむほどには接触なかったのかも。

なぜ親は子どもの運動会やピアノの発表会を見たがるのだろう?世界一を競うわけでもないのに。一番になる子以外のすべてが2番以下。でも。
そう、順位なんかどうだっていい。去年までできなかったことが今年はできるようになった、という我が子の成長が面白くて、それを見に行っているのではないか。

家庭菜園で栽培指導している農家さんが面白いことを言っていた。初めて農作業してみて一番面白かったことを生徒の皆さんにアンケートをとった。その農家さんは当然ながら収穫したときのことを書く人が多いだろうと予想していたら「芽が出たとき」という回答が圧倒的で意外だったという。

オリンピックはオリンピックで世界一を争うのだから面白いとは思う。しかし、我が子が昨日までできなかったことが今日できたという成長の過程を見ることは、種子から芽が出る劇的変化を見るように感動し、大変面白い。子どもと接触しているからこそその成長の面白さを味わえる。

世界一を競うのは競うので演ったらよいと思う。しかし普段から子どもと接してると、「大きくなったなあ!」「足が速くなったなあ!」「言葉遣いや身振りが大人びてきたなあ」などと、その成長に驚かされる。毎日の変化が楽しい。そうした大人が多いほど、子どもは大人を驚かせようと企む。

そうすると、子どもの成長が全体的に底上げになる。世界一を競う人たちだけでなく、ボリュームゾーン全体の能力が底上げ。これは国家的なパワーとなる。だから子どもと接触する機会が多く、子どもの成長に驚く大人が、親だけでなく親戚、ご近所の人たちも巻き込めば、それは日本の底上げになる。

子ども非接触社会から脱却し、子どもとの接触を、無理のない範囲で取り戻していく。そうした努力を、少しずつ始めていきたい。

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